『河北新報』の2011年9月8日付記事、「検証 石巻・大川小の惨事/証言でたどる51分間/黒い水、級友さらった」に釜谷地区住民・高橋和夫氏の重要な証言がある。
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石巻市釜谷地区に住む高橋和夫さん(63)の自宅は北上川沿いを流れる富士川の堤防近くにあった。揺れの直後、外へ出ると、近くの畑からぶくぶく泥水が湧いていた。
「宮城県沖地震の時と一緒だ」と思ったが、津波が来るという危機感はなかった。家に備え付けの防災無線は鳴らず、大津波警報は知らなかった。
「おい、堤防から水越えてるぞ。津波じゃないか」。午後3時半ごろ、近所の人の叫び声が聞こえた。北上川からあふれた泥水が約4メートルの堤防を越え、並行する富士川に流れ込んでいた。みんな慌てて車に乗り、避難を始めた。高橋さんも軽乗用車で堤防沿いを飛ばした。「逃げるならあそこしかない」。目指したのは大川小の裏山だった。
<外で世間話>
県道沿いの住宅地では、まだ多くの住民が外で世間話をしていた。「逃げろ! 津波が来るぞ!」。窓を開けて怒鳴る高橋さんに、顔見知りは「大丈夫」と笑顔で手を振った。「危険と受け止めてくれる人はほとんどいなかった。みんな、津波が来るなんて想像していなかったんだ」
裏山まであと少しのところで、いとこ夫婦が釜谷交流会館の方から来た。「駄目だ、戻っちゃ駄目だ」と説得したが、「家におばあさんがいるんだ」と応じない。引き留められなかった。
<「何でまだ」>
裏山に着く寸前、校庭に子どもたち数十人の姿を見た。釜谷交流会館の前にも10人ぐらいいる。「何でまだここに」。裏山のふもとに車を止めて降りた時、背後から「ドーン」と重い響きが聞こえた。振り向くと、家が壊れるバリバリという音と、煙のような黒い壁が迫ってきた。
「上がれ、上がれー!」。山に向かって走りながら叫んだが、みんな次々と水にさらわれていった。高橋さんも後ろから、津波の気配を何度も感じた。追い付かれまいと、斜面をはい上がった。
眼下には水にのまれた集落が広がっていた。2階建ての校舎も体育館も濁流にのまれ、辛うじて見えた校舎の屋根にはがれきが乗っていた。
しばらくして、助けを求める声が聞こえた。声を頼りに山沿いを歩いていくと、がれきだらけの泥水の中、木の枝をつかんで懸命に耐える女性や子どもの姿があった。
「今助けてやっからな」。まず小学校低学年の女の子に手を伸ばした。水に落ちながらもやっと手をつかみ、周囲のがれきでけがをしないよう、そっと引き寄せた。その後も5、6人は助けただろうか。校舎側の斜面でも、波に運ばれてけがをした中学生を救出した。
雪は本降りになっていた。みんな唇は紫色で震えていた。「ここにいたら凍死する。竹やぶに移動しよう」。全員が高橋さんに従った。別の場所で助かった只野哲也君や石巻市職員らも合流した。
救えない命もあった。川から内陸へ流されながら「助けてー」と叫ぶ子どもたちがいた。声の方向に目を凝らした。流れが急な上、がれきや建材に阻まれて姿が見えない。声は次第にか細くなり、遠ざかっていった。
「自分一人ではどうしようもなかった。でも、助けたかった」。高橋さんは涙を浮かべた。
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20110908_04.htm高橋和夫氏は「逃げるならあそこしかない」と目指した大川小の「裏山」から、本降りとなった雪の中、「ここにいたら凍死する。竹やぶに移動しよう」と生き延びた避難者を促して竹藪に移動し、そこで「別の場所で助かった只野哲也君や石巻市職員ら」と合流しているが、この場所がその竹藪と思われる。

降りてきたルートを見上げる。



ほぼ平らな一画に、焼けた竹がいくつか転がっている。

人工的な草付きの箇所は斜面の角度が単調だが、こちらは上部が急だった分、下部の傾斜は緩やか。






花束を踏まないように注意して降りる。


焼けた竹が散乱していた箇所から下の傾斜は緩やかだったが、降り口には若干の高低差がある。
ただし、津波と瓦礫処理後の整地で地形が少し変わったためと思われる。

降りてきたルートの東側、コンクリート壁との間の部分を見上げる。

再度、草付きの下に向かう。

コンクリート壁の裏側。

斜面の地質を改めて見てみる。
これが柏葉照幸校長の言う「泥炭地でつるつる足が滑る」斜面なのだろうか。

踏み跡のない部分を登って、再度、コンクリートの平場に立つ。




平場の東端から、亡くなった児童の父兄が避難先とすべきだったと主張する場所を見下ろす。
冒頭の記事で、釜谷地区に住む高橋和夫氏が「逃げるならあそこしかない」と考えて目指した「大川小の裏山」も、具体的にはこの場所だろう。


降りてみる。
藪が煩わしいが、小学生でも容易に登り降りできる程度の傾斜。

古い墓石が並べられている。


上部に小屋のようなものが見える。(要拡大)


左隅の墓石には安永二年とある。安永二年は1773年。
他の墓石も江戸時代中期以降の古いものが多い。