2012年08月16日

2012年夏の大川小学校、午前8時15分

大川小学校の問題に関する私の現在の考え方はこちら。

「春の大川小学校」
http://chingokokka.sblo.jp/article/55492680.html
「大川小学校の裏山再訪(その4)」
http://chingokokka.sblo.jp/article/54661115.html

2012_0816_081702-IMG_7426.JPG
ヒマワリの後ろに新北上大橋。

2012_0816_081730-IMG_7427.JPG
ヒマワリは3列に植えられている。

2012_0816_081744-IMG_7428.JPG
土手に上る。
水面は富士沼から北上川(追波川)と並行して流れている富士川。

2012_0816_081749-IMG_7429.JPG
こんもりした木々の下に石碑群がある地元の通称「三角地帯」を見る。

2012_0816_081908-IMG_7434.JPG
アサガオ。

2012_0816_081910-IMG_7435.JPG
「三角地帯」の手前にもヒマワリが植えられている。

2012_0816_081914-IMG_7436.JPG

2012_0816_082111-IMG_7438.JPG
慰霊碑前にもヒマワリが沢山ある。

2012_0816_082132-IMG_7439.JPG

2012_0816_082202-IMG_7441.JPG
撮影時には気づかなかったが、後ろのトヨタハイエースは間寛平さんの「みちのくマラソン」の伴走車だった。
慰霊碑前にいたのも「みちのくマラソン」のスタッフだろう。

2012_0816_082302-IMG_7442.JPG
3月から4月にかけて何度も昇り降りした斜面に向かう。

「春の大川小学校」
http://chingokokka.sblo.jp/article/55492680.html

2012_0816_082349-IMG_7443.JPG
木を植えている。

2012_0816_082351-IMG_7444.JPG
斜面には夏草が生い茂っている。

2012_0816_082443-IMG_7445.JPG
踏み跡を辿って一段目の平場に上り、振り返る。

2012_0816_082446-IMG_7446.JPG
幅4mの平場にも夏草が繁茂している。

2012_0816_082448-IMG_7447.JPG
反対側(東方向)。

2012_0816_082456-IMG_7448.JPG

2012_0816_082458-IMG_7449.JPG

2012_0816_082500-IMG_7450.JPG

2012_0816_082606-IMG_7453.JPG

2012_0816_082713-IMG_7454.JPG
宮沢賢治の詩を題材とした壁画の前にも数本のヒマワリが植えられている。

2012_0816_082728-IMG_7456.JPG

2012_0816_083004-IMG_7459.JPG
「KANPEI みちのくマラソン」のステッカーが貼ってある。
撮影時には知らなかったが、間寛平さんの「みちのくマラソン」の伴走車だった。

「指ヶ浜の間寛平さん」
http://chingokokka.sblo.jp/article/57664326.html
「名取市陸上競技場の間寛平さん(その1)」
http://chingokokka.sblo.jp/article/57657689.html
「名取市陸上競技場の間寛平さん(その2)」
http://chingokokka.sblo.jp/article/57658813.html
posted by 神宮威一郎 at 08:15| Comment(0) | 大川小学校とその周辺

2012年04月15日

春の大川小学校、午前9時45分

大川小学校の「裏山」を実際に歩いてみた結果、私としては亡くなった児童の父兄が『河北新報』2011年9月8日付記事で主張されている通り、体育館裏の杉林が避難場所として一番良かったと考えている。
自分なりの調査の最終確認として、この場所までどのくらいの時間で避難できたかを調べるために大川小学校に行ってみた。

前回の結論:「大川小学校の裏山再訪(その4)」
http://chingokokka.sblo.jp/article/54661115.html

2012_0415_094546-IMG_5001.JPG
大川小学校の手前の空き地に駐車して長面浦方向を見る。

2012_0415_094548-IMG_5002.JPG
少し右。
大川小学校。

2012_0415_094550-IMG_5003.JPG
更に右。
本当に何もなくなってしまった。

2012_0415_094556-IMG_5005.JPG
震災当日に児童が目指した北上大橋のたもと、地元の通称「三角地帯」を振り返る。

2012_0415_094636-IMG_5006.JPG

2012_0415_094753-IMG_5008.JPG
沢山の桜の造花と鯉のぼり。

2012_0415_094822-IMG_5014.JPG

2012_0415_094826-IMG_5015.JPG

2012_0415_094847-IMG_5017.JPG

2012_0415_094851-IMG_5018.JPG

2012_0415_095409-IMG_5023.JPG
「津波到達点」のプレートの下に移動。

2012_0415_095421-IMG_5024.JPG
「津波到達点」のプレートを見上げる。

2012_0415_095534-IMG_5025.JPG
プレートまではかなり大勢が登っていて踏み跡ができているので、2メートルほど離れたところを最初のコンクリートの平場まで登ってみた。
特に急ぐことなく、淡々と登って35秒かかった。
踏み跡をたどれば30秒ほどか。

2012_0415_095536-IMG_5026.JPG
コンクリートの平場から大川小学校の校舎を見る。

2012_0415_095543-IMG_5027.JPG
第一の平場から第二の平場を見上げる。
正確な角度は第一の平場までの斜面と同じなのかもしれないが、微妙に角度が増しているような感じがして、いささか圧迫感がある。

2012_0415_095809-IMG_5028.JPG
第一の平場の東端から体育館の裏の杉林に降りる。
亡くなった児童の父兄が、『河北新報』2011年9月8日付記事で、避難場所とすべきだったと主張されている場所。

2012_0415_095830-IMG_5029.JPG
点在する平べったい石は江戸時代の年号が入った古い墓石。
近くの墓地から津波で流出したと思われる。

2012_0415_095934-IMG_5034.JPG
校舎を見る。

2012_0415_095940-IMG_5035.JPG
この青いテープが巻かれた杉のあたりの高さが、コンクリートの平場とほぼ同じ。

2012_0415_095951-IMG_5036.JPG
青いテープの杉を出発点として、校舎前の慰霊碑まで大人の普通の速さで歩いてみたら、2分30秒ちょうどだった。
ついで同じルートを慰霊碑から青いテープの杉まで戻ってみたら、やはり2分30秒だった。
青いテープまで少し登りとなっているので、時間に若干の差が出るかと思ったが、今回は全く同じだった。

2012_0415_100320-IMG_5039.JPG
旅行会社のバスやタクシーに乗って、大勢の人が校舎前に来ては去って行く。

2012_0415_100744-IMG_5042.JPG

2012_0415_101035-IMG_5046.JPG

2012_0415_101040-IMG_5047.JPG

2012_0415_101104-IMG_5048.JPG
少し前、このタクシーの運転手さんが案内してきた客に、周囲の地形を指さしつつ震災当時の状況を説明していた。

2012_0415_101125-IMG_5049.JPG
posted by 神宮威一郎 at 09:45| Comment(0) | 大川小学校とその周辺

2012年03月25日

大川小学校の裏山再訪(その4)、午後0時40分

【更新日:2013年3月23日、浄水場の写真追加】

大川小学校関係の新聞記事やネット情報を見ると、「裏山」の安全度に関する地元の人の評価が異なっているが、これは「裏山」の範囲が明確でないためと思われる。
人によって微妙に異なった場所を大川小学校の「裏山」と把握していて、それを現地の地形を知らないマスコミ関係者が分析しないまま報道し、混乱を増幅させている。
(A)体育館裏の杉林、(B)斜面を切り崩した草付き、(C)竹藪、(D)竹藪の西の杉林、といった具合にゾーンを分けて、個々の証言の「裏山」がどの部分を指しているのかを明確にすれば、それなりに整合性のある理解が得られると思われる。
例えば亡くなった児童の父兄の一部が、「三角地帯」などより遥かに安全で、わずか数分で全員避難できたはずだと主張している(A)体育館裏の杉林は、『河北新報』2011年9月8日記事の写真に出ている範囲では倒木はないが、上の方に行けば倒木はあるので、倒木があると言っている人が嘘をついている訳ではない。
ただ、結論としては、私は当該記事に紹介されている父兄の意見に完全に賛成する。
判断の遅れについての批判はひとまず置くとして、現実に避難を開始した午後3時25分の時点において、「三角地帯」ではなく(A)体育館裏の杉林を選択すれば、午後3時37分の津波襲来まで12分間あるから、全員が助かったはずだと考える。
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20110908_01.htm

2012_0325_123803-IMG_2053.JPG
上に見えた建物を目指して墓石の横を登ってみる。
踏み跡がある。

2012_0325_123859-IMG_2054.JPG

2012_0325_123909-IMG_2056.JPG
何かの作業小屋のように見える。(要拡大)

2012_0325_123942-IMG_2058.JPG

2012_0325_124131-IMG_2061.JPG
コンクリート製のがっしりした建造物だった。

2012_0325_124147-IMG_2065.JPG
何気なく撮影したところ、フラッシュが発光して驚いた。
正午の大川小学校到着時には晴れていたが、いつの間にか天気が悪化していた上、杉林の中に入り込んでいたので、周囲が相当暗くなっていた。

2012_0325_124220-IMG_2066.JPG
到着。

2012_0325_124241-IMG_2067.JPG
昭和35年に造られた釜谷地区の水道施設だった。

2012_0325_124250-IMG_2068.JPG
2枚のプレートに浄水場建設の趣旨・経緯・関係者の氏名・役職等が刻まれている。

2012_0325_124305-IMG_2069.JPG

2012_0325_124329-IMG_2070.JPG

2012_0325_124403-IMG_2073.JPG
浄水場より上にも登れるが、引き返すことにした。
二日前に登った踏み跡に近づくため、杉の枯れ枝を踏んでトラバース気味に移動する途中の地点で下を見る。
踏み跡ははっきりしないが、枯れ枝の煩わしさを我慢すればどこでも歩ける。

2012_0325_124603-IMG_2079.JPG
溝状の地形を直上する明瞭な踏み跡に合流。

2012_0325_124725-IMG_2082.JPG

2012_0325_124734-IMG_2083.JPG
中央の少し上、コンクリートの平場を見る。(要拡大)

2012_0325_124801-IMG_2084.JPG
雨が降ってきた。

2012_0325_124805-IMG_2085.JPG

2012_0325_124833-IMG_2087.JPG

2012_0325_124930-IMG_2089.JPG
「モマケズ
ニモマケズ」

2012_0325_125023-IMG_2092.JPG

2012_0325_125304-IMG_2095.JPG
雪混じりの雨が激しくなり、車に逃げ込む。

2012_0325_125508-IMG_2096.JPG
横着をして車の中から撮影。

2012_0325_125514-IMG_2097.JPG

2012_0325_125517-IMG_2098.JPG

2012_0325_125657-IMG_2100.JPG

2012_0325_130245-IMG_2111.JPG
車に逃げ込んでから約10分後、雨の勢いが弱まったので車から出て周囲を眺める。
雲の切れ間に青空が広がっているところもある。

2012_0325_130246-IMG_2112.JPG

2012_0325_130253-IMG_2113.JPG

2012_0325_130257-IMG_2114.JPG
「三角地帯」と新北上大橋。

2012_0325_130326-IMG_2115.JPG
この日は本当にめまぐるしく天気が変わり、この後、富士沼周辺に行くと豪雨となった。
その後、雄勝町の仮設商店街に行くと大粒の雹が降ってきた。
posted by 神宮威一郎 at 12:40| Comment(0) | 大川小学校とその周辺

大川小学校の裏山再訪(その3)、午後0時25分

『河北新報』の2011年9月8日付記事、「検証 石巻・大川小の惨事/証言でたどる51分間/黒い水、級友さらった」に釜谷地区住民・高橋和夫氏の重要な証言がある。

----------
 石巻市釜谷地区に住む高橋和夫さん(63)の自宅は北上川沿いを流れる富士川の堤防近くにあった。揺れの直後、外へ出ると、近くの畑からぶくぶく泥水が湧いていた。
 「宮城県沖地震の時と一緒だ」と思ったが、津波が来るという危機感はなかった。家に備え付けの防災無線は鳴らず、大津波警報は知らなかった。
 「おい、堤防から水越えてるぞ。津波じゃないか」。午後3時半ごろ、近所の人の叫び声が聞こえた。北上川からあふれた泥水が約4メートルの堤防を越え、並行する富士川に流れ込んでいた。みんな慌てて車に乗り、避難を始めた。高橋さんも軽乗用車で堤防沿いを飛ばした。「逃げるならあそこしかない」。目指したのは大川小の裏山だった。
<外で世間話>
 県道沿いの住宅地では、まだ多くの住民が外で世間話をしていた。「逃げろ! 津波が来るぞ!」。窓を開けて怒鳴る高橋さんに、顔見知りは「大丈夫」と笑顔で手を振った。「危険と受け止めてくれる人はほとんどいなかった。みんな、津波が来るなんて想像していなかったんだ」
 裏山まであと少しのところで、いとこ夫婦が釜谷交流会館の方から来た。「駄目だ、戻っちゃ駄目だ」と説得したが、「家におばあさんがいるんだ」と応じない。引き留められなかった。
<「何でまだ」>
 裏山に着く寸前、校庭に子どもたち数十人の姿を見た。釜谷交流会館の前にも10人ぐらいいる。「何でまだここに」。裏山のふもとに車を止めて降りた時、背後から「ドーン」と重い響きが聞こえた。振り向くと、家が壊れるバリバリという音と、煙のような黒い壁が迫ってきた。
 「上がれ、上がれー!」。山に向かって走りながら叫んだが、みんな次々と水にさらわれていった。高橋さんも後ろから、津波の気配を何度も感じた。追い付かれまいと、斜面をはい上がった。
 眼下には水にのまれた集落が広がっていた。2階建ての校舎も体育館も濁流にのまれ、辛うじて見えた校舎の屋根にはがれきが乗っていた。
 しばらくして、助けを求める声が聞こえた。声を頼りに山沿いを歩いていくと、がれきだらけの泥水の中、木の枝をつかんで懸命に耐える女性や子どもの姿があった。
 「今助けてやっからな」。まず小学校低学年の女の子に手を伸ばした。水に落ちながらもやっと手をつかみ、周囲のがれきでけがをしないよう、そっと引き寄せた。その後も5、6人は助けただろうか。校舎側の斜面でも、波に運ばれてけがをした中学生を救出した。
 雪は本降りになっていた。みんな唇は紫色で震えていた。「ここにいたら凍死する。竹やぶに移動しよう」。全員が高橋さんに従った。別の場所で助かった只野哲也君や石巻市職員らも合流した。
 救えない命もあった。川から内陸へ流されながら「助けてー」と叫ぶ子どもたちがいた。声の方向に目を凝らした。流れが急な上、がれきや建材に阻まれて姿が見えない。声は次第にか細くなり、遠ざかっていった。
 「自分一人ではどうしようもなかった。でも、助けたかった」。高橋さんは涙を浮かべた。
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20110908_04.htm

高橋和夫氏は「逃げるならあそこしかない」と目指した大川小の「裏山」から、本降りとなった雪の中、「ここにいたら凍死する。竹やぶに移動しよう」と生き延びた避難者を促して竹藪に移動し、そこで「別の場所で助かった只野哲也君や石巻市職員ら」と合流しているが、この場所がその竹藪と思われる。

2012_0325_122508-IMG_2005.JPG
降りてきたルートを見上げる。

2012_0325_122510-IMG_2006.JPG

2012_0325_122514-IMG_2007.JPG

2012_0325_122527-IMG_2010.JPG
ほぼ平らな一画に、焼けた竹がいくつか転がっている。

2012_0325_122540-IMG_2014.JPG
人工的な草付きの箇所は斜面の角度が単調だが、こちらは上部が急だった分、下部の傾斜は緩やか。

2012_0325_122601-IMG_2015.JPG

2012_0325_122612-IMG_2016.JPG

2012_0325_122619-IMG_2017.JPG

2012_0325_122627-IMG_2018.JPG

2012_0325_122633-IMG_2021.JPG

2012_0325_122648-IMG_2022.JPG
花束を踏まないように注意して降りる。

2012_0325_122654-IMG_2024.JPG

2012_0325_122812-IMG_2028.JPG
焼けた竹が散乱していた箇所から下の傾斜は緩やかだったが、降り口には若干の高低差がある。
ただし、津波と瓦礫処理後の整地で地形が少し変わったためと思われる。

2012_0325_122830-IMG_2029.JPG
降りてきたルートの東側、コンクリート壁との間の部分を見上げる。

2012_0325_122841-IMG_2030.JPG
再度、草付きの下に向かう。

2012_0325_122924-IMG_2032.JPG
コンクリート壁の裏側。

2012_0325_123001-IMG_2033.JPG
斜面の地質を改めて見てみる。
これが柏葉照幸校長の言う「泥炭地でつるつる足が滑る」斜面なのだろうか。

2012_0325_123144-IMG_2034.JPG
踏み跡のない部分を登って、再度、コンクリートの平場に立つ。

2012_0325_123225-IMG_2036.JPG

2012_0325_123231-IMG_2037.JPG

2012_0325_123235-IMG_2038.JPG

2012_0325_123402-IMG_2041.JPG
平場の東端から、亡くなった児童の父兄が避難先とすべきだったと主張する場所を見下ろす。
冒頭の記事で、釜谷地区に住む高橋和夫氏が「逃げるならあそこしかない」と考えて目指した「大川小の裏山」も、具体的にはこの場所だろう。

2012_0325_123403-IMG_2042.JPG

2012_0325_123409-IMG_2044.JPG
降りてみる。
藪が煩わしいが、小学生でも容易に登り降りできる程度の傾斜。

2012_0325_123707-IMG_2047.JPG
古い墓石が並べられている。

2012_0325_123731-IMG_2049.JPG

2012_0325_123732-IMG_2050.JPG
上部に小屋のようなものが見える。(要拡大)

2012_0325_123747-IMG_2051.JPG

2012_0325_123756-IMG_2052.JPG
左隅の墓石には安永二年とある。安永二年は1773年。
他の墓石も江戸時代中期以降の古いものが多い。

posted by 神宮威一郎 at 12:25| Comment(0) | 大川小学校とその周辺

大川小学校の裏山再訪(その2)、午後0時15分

2012_0325_121538-IMG_1968.JPG
北東、北上川(追波川)河口方面。

2012_0325_121539-IMG_1969.JPG

2012_0325_121541-IMG_1970.JPG

2012_0325_121543-IMG_1971.JPG

2012_0325_121602-IMG_1972.JPG

2012_0325_121709-IMG_1976.JPG

2012_0325_121711-IMG_1977.JPG

2012_0325_121715-IMG_1978.JPG

2012_0325_121716-IMG_1979.JPG

2012_0325_121719-IMG_1980.JPG
体育館跡。

2012_0325_121726-IMG_1982.JPG
北方向、北上川(追波川)の対岸。

2012_0325_121731-IMG_1984.JPG

2012_0325_121901-IMG_1987.JPG
二段目の平場の西端から上を見上げる。
手前の白い斜面と、奥の茶色の斜面の境のラインが三段目の平場と思われる。
右の竹藪から登ることは可能。

2012_0325_121904-IMG_1988.JPG

2012_0325_121907-IMG_1989.JPG
西端から下の竹藪を覗き込む。
傾斜は急ではあるが、竹伝いに行けば降りることは可能。

2012_0325_121921-IMG_1992.JPG
一段目の平場からは竹藪沿いの草付きを登り、そこから稜線(というのも大袈裟だが)の竹藪側を登ってきた。
登りのときは何とも思わなかったが、上から覗くとそれなりに高度感がある。

2012_0325_122017-IMG_1993.JPG

2012_0325_122020-IMG_1994.JPG

2012_0325_122115-IMG_1995.JPG
草付きの上部から一段目の平場を見る。
さすがにここは滑りやすそうな感じがする。

2012_0325_122132-IMG_1996.JPG

2012_0325_122240-IMG_1998.JPG
登りのルートではなく、竹藪の中を下ることにする。

2012_0325_122241-IMG_1999.JPG

2012_0325_122245-IMG_2001.JPG
傾斜は急なので、竹から竹へ少しずつ移動する。

2012_0325_122350-IMG_2002.JPG
傾斜が緩やかな場所がある。

2012_0325_122351-IMG_2003.JPG
折れた竹が沢山ある。
posted by 神宮威一郎 at 12:15| Comment(0) | 大川小学校とその周辺