2013年08月25日

歴史認識問題への漢方薬的アプローチ

※追記 6月18日に投稿したものですが、トップに置くために便宜上日付をずらしました。

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久しぶりの更新です。
直接にはこちらのブログと関係ありませんが、私が運営する掲示板に下記投稿をしました。
ご意見・批判・感想等ありましたら、掲示板の方にお願いします。

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歴史認識問題への漢方薬的アプローチ 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2013年 6月18日(火)

1.はじめに
2.局面転換に必要な布石
3.具体的方策─英語による情報発信量の拡大
4.運営体制
5.付随的効果
6.おわりに-漢方医的な国家論

1.はじめに

 2013年5月、大阪市長橋下徹氏の発言で「従軍慰安婦」問題が再燃した。
 橋下氏が慰安婦という複雑な問題に対処するにふさわしい資質を欠く政治家であったため、同氏の特異な情報発信能力にもかかわらず、結局は何度も見飽きたパターン、即ち日本の政治家の「失言」が慰安婦問題に敏感な国内メディアを刺激し、国内メディアが発信した情報がアメリカ・韓国・中国で増幅され、海外で発信された情報が日本に還流して混乱に更に輪をかける、という構図が再現されることとなった。
 ただ、今回の橋下氏の行動では、対応の山場を外国人記者クラブでの共同記者会見に設定し、予定時間を超えて提示された全ての質問にそれなりに丁寧に答えたという点は従来の「失言」政治家には見られなかった姿勢であり、若干の新鮮さを感じさせた。
 橋下氏は共同記者会見において沖縄駐留米軍への侮辱となる発言を撤回・謝罪する一方、なぜ日本の過去だけが現在の価値観で攻撃されるのか、「軍隊と性」をめぐっては、現代の人権感覚から見れば不適切な事象は日本だけでなく世界各国にあったのに、なぜ日本だけがいつまでも執拗に断罪されるのか、あまりに「不公平」ではないか、という点を強調したが、このような感覚は国民の一部に根深いもので、今後も折に触れて噴出することになろう。
 また、このような感覚を共有しない国民の中にも、慰安婦問題が扱われる頻度・態様は、日本の近代史全体の中であまりにバランスを欠くのではないか、という漠然とした違和感を持つ人は相当いるのではないかと思われる。
 そして慰安婦と同種の歴史認識の問題として、日本と中国との間には南京事件問題が存在している。
この二つの問題は、第二次世界大戦の反省を踏まえて「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」(憲法前文)日本にとって、いつまでもまとわりつく亡霊のような存在になってしまっているが、韓国には韓国の、中国には中国の国内事情があり、日本側がこの二つの問題に触れたくないと思っても、再燃の可能性は極めて高いだろう。
 国内においても、東日本大震災とそれに伴う福島第一原発の事故以降、日本はエネルギー問題という経済の根本において長期にわたり不安定性を抱えることとなった。
 北朝鮮という爆弾を抱えた朝鮮半島に加え、中国が継続的に軍事力を拡大して周辺諸国に不気味な圧力を加え続けている東アジア情勢の中で、歴史認識問題に関するナショナリスティックな感情を放置しておけば、何かのきっかけで国境を挟んで憎悪の連鎖・応酬を生み、未だ経験したことのないレベルの紛争に転化する可能性もあるだろう。
 国内でも国外でも厳しい状況の継続が予想される中、歴史認識問題での将来のトラブルの再発・激化を防止するために、現時点において局面転換の布石を打っておく必要性は高い。

2.局面転換に必要な布石

 それでは、局面転換のためにどのような布石を打つべきか。
 慰安婦と南京事件問題自体の評価から距離を置いて、単純に様々な歴史的事象に関する情報量を比較してみた場合、日本の近代史に関して国際社会の中で英語で発信される情報としては、この二つの問題の情報量は突出して多いように思われる。
 そしてこの二つの問題は、国際社会の中で、日本が歴史と真摯に向かい合っていない、日本には歴史を隠蔽し捻じ曲げようとする勢力が厳然と存在している、といった漠然としたイメージを作り出しているのではないだろうか。
 もちろん実際には日本は言論の自由・学問の自由が完全に保障されている国なので、歴史認識について多様な見解はあるものの、歴史学への公権力の介入はなされておらず、水準の高い精緻な研究が行われていることは世界に誇ってよいことであろう。
 しかし、英語が実質的に世界の共通語である現代において、日本国内では評価が高い歴史学者を含め、殆どの歴史学者の論文・著書は英訳されておらず、世界的に一流と認めてもらえるような歴史学者は存在していない。
 世界との競争に曝されている他の多くの学問分野においては、一流の研究者と目されるためには英文で論文を発表することが必須であるが、歴史学を含む文系の僅かな分野では研究者の多くが日本語の壁の中に安住しており、世界には全く影響力を持っていない。
 これでは、国際社会から見ればそもそも日本の歴史学の水準を判断する手掛りすらなく、結果として慰安婦・南京事件という特別な事象に関しての政治的なバイアスを多分に含んだ情報のみで日本の歴史認識の水準、歴史学の水準が想像されてしまっても仕方ないだろう。
 このような現状に鑑みれば、今の時点で国際社会からの信頼を確保するために一番必要とされているのは国際社会から見た日本史全体の情報量のバランスを取ることであろう。
 これが歴史認識に関して世界から日本は信頼できる国だとのイメージを持ってもらうための、迂遠ではあっても一番確実な方法ではないかと私は考える。

3.具体的方策─英語による情報発信量の拡大

 では、情報量のバランスを取るために具体的に何をしたらよいのか。
 私の提案は極めてシンプルなもので、何も国際社会向けに特別な情報を用意する必要はなく、既に日本語で公開されている多数の歴史学に関係する文献のうち、学問的見地から一定水準を確保しているものを、一般向けの概説書から専門書、論文まで、どんどん英語に翻訳してインターネットで公開し、世界中の誰でも、いつでも読めるようにすればよいのではないか、というものである。
 中央公論社・講談社・小学館・集英社等の大手出版社が一般読者向けに出している日本通史の入門シリーズや岩波新書・中公新書・文春新書などの新書タイプの比較的ソフトなものから、もう少し高度な専門書、更に専門研究者を主たる対象とする学術雑誌に掲載されるハードな論文まで、様々な立場の歴史学者が日本語で発信した情報を、国外向けに特に改変することなく、日本国内における議論の状況そのままの形で大量に英文に翻訳して発信すればよいのではなかろうか。
 一般的には研究の基礎となる史料までは翻訳の必要はないだろうが、慰安婦・南京事件に限っては、存在する限りの一切の史料を翻訳し、その史料価値と解釈についての解説を付し、史料の解釈に争いがある場合にはその争いの内容についても説明し、日本は両問題の事実関係については何一つ隠し立てしていないことを明らかにすべきであろう。
 国家としての品格を世界にアピールするために行う基盤整備であるから、費用は当然に国家が負担する。
 仮に一冊あたり、執筆者への著作権料、翻訳料等を含めて一千万円かかるとして、一年に千冊翻訳したとしても年に僅か百億円程度である。
 防衛費やODAなどと比較すれば、国際社会の信頼感維持という安全保障の根幹の部分への拠出としては、全く安価といえよう。
 仮に十年かけて一万冊程度の書籍・論文を翻訳すれば、日本や東アジアの歴史について興味を持った人が世界各地でネットで検索をかけたときに、かなりの頻度で日本発信の歴史情報がヒットするようになるだろう。
 そして、そこで出会った情報が検索者の求めるものであった時はもちろん、仮に専門的すぎて理解しにくい議論だったとしても、なるほど日本ではこのような複雑な議論が展開されているのか、日本の歴史学の水準はたいしたものだな、と思ってもらえれば充分に成功と言えるだろう。
 様々な立場の研究者の研究内容をそのまま翻訳・公表するのであるから、当然に内容は各研究者個人の責任に帰せられるものであって、国家はその内容を保障しないし、責任も負わない。
 その結果、場合によっては日本政府には外交上望ましくないような情報も発信されることがありえよう。
 しかし、日本が中国や韓国のように歴史認識で一枚岩でないのは、決して日本の弱点ではない。
 多種多様な見解があって一見バラバラに見えても、全体として日本の歴史学の水準は極めて高いな、国家が歴史認識の統一を図ろうとしたり、建前としては学問の自由の保障をうたっていても、実際には異論を排除する社会的強制力が強い国とはやはり違うな、と思ってもらえれば、それが小さな外交的勝利である。
 そして世界各国の多くの人にそうした小さな経験を積み重ねてもらえば、日本は歴史と真摯に向かい合っていない、日本には歴史を隠蔽し捻じ曲げようとする勢力が厳然と存在している、といったイメージは徐々に減少して行くだろう。

4.運営体制

 それでは歴史関係情報を英語で大量に発信するための運営体制はどのようにすればよいだろうか。
 インターネットの世界の原則は自由であり、要するに歴史関係の情報量が増えればよいのだから、インターネットでの発表を継続することを唯一の条件として、著作者に翻訳業者の選定、発信するサイトの選択を含め、全てをまかせて国は補助金を出すだけ、というのもひとつの考え方ではある。
 しかし、そもそもどの文献をどのような順番で翻訳するかという選定が恣意的であってはならないし、翻訳の水準がバラバラでも困る。基本的な専門用語についての訳語の統一が図られず、無用な混乱を招くことがあってもまずいだろう。
 長期的な視野に立ち、良質な情報を継続的に発信する体制を維持するためには、やはり相応の人員を配置した専門機関を設けて管理運営の円滑を図るべきであろう。
 そして一方的な情報発信にとどまらず、世界各地からのフィードバックに対応し、参考文献の所在等の質問に回答するレファレンス部門も設けるべきであり、ここに日本史の専門知識を持った専任スタッフを置くべきであろう。
 また、翻訳の対象となる書籍・論文や順番も、フィードバックの内容を参考にした上で、適宜調整すべきであろう。

5.付随的効果

 歴史関係情報を英語で継続的かつ大量に発信する体制を整えれば、付随的に次のような効果が期待できると考える。
 第一は日本の歴史学の水準の更なる向上である。
 現時点で日本の歴史学界においては精緻な実証的研究が行われており、決して欧米諸国に劣っている訳ではない。
 しかし、日本の研究者の中には日本語の壁に安住し、狭い専門家集団の中での評価に一喜一憂し、職人芸を磨き上げることに専念している人も多い。
 英語による情報発信を当たり前のものとすることは、このような蛙の集団が住む井戸に大量の海水を注ぎ込むようなものであり、多数の蛙の中から大海に泳ぎ出す蛙が出てくるだろう。
 その中からは、世界的な評価を獲得する歴史学の巨人が誕生する可能性もあるだろう。
 付随的な効果の第二は海外の日本研究のレベルの向上である。
 日本の国力低下、中国の台頭とともに、アメリカにおける日本研究者の数は減少し、東アジアに興味を持つ優秀な人材は大半が中国研究に向かっている。また、日本に駐在する欧米の新聞社・通信社の記者も質が低下している。
 日本語の壁を取り払い、日本に興味を持つ人が容易にアクセスできる情報の量を全体的に増やすことで、海外の日本研究者の質を向上させることが可能となり、また日本から欧米の新聞社・通信社によって日本から発信される情報の質も向上するであろう。
 第三として、日本の出版社にとっての新たな市場開拓の可能性があげられる。
 現時点では日本史に関する情報についての国外からの需要は全くといっていいほど存在しないが、英語での歴史情報が大量に集積された基盤がいったん出来上がれば、世界各地から様々な感想が寄せられるようになり、そのフィードバックの内容を分析することにより、日本の読者の需要とは異なる新たな需要を商業ベースで発掘できる可能性がある。
 日本に拠点を置いた、海外の読者をターゲットとする新たな出版社や通信社が生まれる可能性もあるだろう。
 付随的な効果の第四は日本国内各地の観光産業への刺激である。
 観光地で発行されている英文パンフレットや案内板の内容、また観光に関係する各種団体や企業の英語版ホームページには英文としての余りのレベルの低さに目を覆いたくなるようなものが多いが、自治体史や郷土史も含め、英訳の対象を拡大して行けば、観光情報の内容も大幅に改善され、観光・ビジネス目的で日本を訪問した人が得られる日本文化に関する情報の質と量が向上するだろう。

6.おわりに-漢方医的な国家論

 慰安婦・南京事件問題に関心が集中するあまり、海外で活躍するビジネスマン等の実務家にとっては、日本の歴史は日本の発展を妨げる負の遺産のように感じられることすらあろうが、日本史全体についての豊富な情報を提供できる体制が整えば、歴史はむしろ日本の戦略的な資源となろう。
 列強の脅威に正面から対峙し、明治維新で国家体制を根本的に改革し、西欧文明を積極的に導入して急速に産業を発展させた日本は、反面、後発的な帝国主義国として植民地支配も行ったが、第二次世界大戦で多数の犠牲者を出した経験を踏まえて平和国家に転換し、対外的な武力活動を一切行わない状態を既に七十年余り続けている。
 この日本の歴史は、未だに文明・文化の衝突が世界各地で戦争・内紛・差別を惹き起こしている現実の中で、平和を望む多くの人々の参考になる知識・経験を豊富に含んだ豊かな土壌である。
 その土壌に、日本の歴史学者は既に多数の井戸を掘って、豊かな成果を蓄積している。
 この成果を生み出す技術そのものが、日本にとっての貴重な、海外には未だ輸出されていない未開拓の資源である。
 たまたま日本に生まれた人から世界的な歴史学者を育てるというのもスケールの小さい話であり、日本は世界各国から歴史学者としての素質を持つ優秀な人材を招き、欧米諸国からの影響を受けつつも独自の発展を遂げた日本の歴史研究の手法を教え、それぞれの出身地の風土に合った井戸を掘り、叡智を汲み上げることのできる歴史家を育てるべきである。
 もちろん一朝一夕にそのような人が生まれるはずがない。
 当面はそのような人が生まれる基盤を作るための地味な努力を重ねるべきである。
 日本が近代化の参考とした西欧諸国の理念、特に近代人権思想は極めて優れたもので、当面はこれに対抗できる思想の枠組みは生まれないだろうが、この理念を掲げた西欧諸国が世界を大きく進歩させた一方で、しかし、文明・文化の衝突をも引き起こし、混乱を増幅させているのも世界の現実である。
紛争が発生した場合、紛争地に乗り込んで行ってメスを振るう外科医のような存在も必要であるが、そうした役割は余り日本には似合いそうもない。
 日本は行動的な外科医ではなく、世界を紛争の起こりにくい体質にゆっくりと変えるための漢方医のような国家を目指すべきであり、また世界をそうした方向に変えて行く深い叡智を持った歴史学者を世界各地に育てるべきである。

以上

posted by 神宮威一郎 at 15:34| Comment(0) | 運営者プロフィール

2011年07月01日

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 被災した神社・寺院は地域社会の精神的な結節点であり、被災地の復興のためには「慰霊のための公園」といった非伝統的な施設の新設より伝統的な神社・寺院の再建の方が遥かに効果的ですが、従来の憲法解釈では、政教分離原則により被災した神社・寺院の再建に公的な資金援助はできないとの見解が一般的です。
 しかし、大震災の現実を踏まえた上で最高裁判所の目的効果基準を再考してみれば、防災目的に現実に役立つ機能を付加することを条件に神社・寺院に公的援助を行うことは政教分離原則には反せず、積極的に行わなければならないと考えます。
posted by 神宮威一郎 at 13:39| Comment(0) | 運営者プロフィール