同神社の公式サイトはこちら。
http://hayama.jinja.jp/index.html
臨時駐車場に車を置き、神社に向かう。
海側、東方向。
西方向。80戸ほどの住居が流されたという。
「早馬山大権現」の幟が鮮やか。風が強い。
手水舎。流失したため、新築。
津波はこの石段を越え、本殿も高さ2メートルほどまで浸水したという。原口強・岩松暉著『東日本大震災 津波詳細地図(上)』によれば、早馬神社近辺の津波浸水高は浦地区で11.84m、竹の町川で16.54mとなっているが、早馬神社は地形的に似ている前者程度の浸水高だった模様。
「撫で馬 万事うまくいきますように」。
「祈 震災復興 KARAKUWA KESENNUMA 唐桑復興支援協同体」。
「早馬(はやま)神社
御祭神 倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
例祭日 九月十九日
神幸船祭 十月第一日曜日
由緒
建保五年(一二一七年)、鎌倉若宮(鶴岡八幡宮)の宮司であった梶原専光坊僧正景實(かじわらかげざね、梶原景時公の兄)は、正治元年(一一一九年)の源頼朝公の死亡、これを追うかのような梶原景時一族の没落、又、和田、畠山氏が滅んで行くのを見て世を憂い鎌倉を離れ、蝦夷千島を目指して下り、その途中の当町石浜にたどりつきそこを切り開き住む。
居宅の脇に一廟を建て、源頼朝公(鎌倉幕初代将軍)、梶原景時公(源頼朝公第一の家臣)、梶原景季公(景時公の子)の御影を安置し、一族の冥福を祈り菩提を弔う為、梶原神社を崇め奉る。
建保七年(一二一九年)、一族の梶原三郎兵衛尉景茂の子である第二代大和守景永は景實僧正の後を慕いこの地に至り景實の猶子となる。
景永は神職となり、早馬大権現別当として早馬山頂に社殿(奥宮)を建立する。山号は早馬山、寺号を漢曼寺と称す。
正慶元年(一三三二年)、第五代大和守慶永の時、紀州熊野本宮より本地佛阿弥陀薬師観音を勧請し社殿を新たに建立。 以後、奥宮里宮合わせ数度の建て替えが行われる。
本山派修験良厳院累世社務を掌り現宮司で三十三代目となる。
仙台藩時代には伊達家の祈祷師として仕え九曜紋を授かる。
明治、神仏分離令により早馬大権現より現社号に改め現在に至る。
例祭・神幸祭には、神輿渡御、船祭り、献膳祭、打囃子、稚児行列が執り行われる。
奥宮 早馬山頂(漁火パーク徒歩十五分)
兼務社 八雲神社(越路 天王山頂)
境内社 不動尊神社、金刀比羅神社、天照皇大神、若木神社、祖霊社」