城山城址へは大槌小学校の校門前から町道愛宕山線を通って行くが、途中に中央公民館・体育館がある。
帰路に中央公民館に寄ってみた。
「城山公園」。
現在地は地図の一番右。
高台となっており、町を見下ろすことができる。
江岸寺墓地。
同じ位置から少し右。
更に右。
少し位置を変えて、墓地の下部を見る。
整地された空間が江岸寺のあった場所と思われる。
江岸寺については、以下、2011年4月5日付『読売新聞』を引用。
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寺失い法衣なくても…被災僧侶、再起の読経
東日本大震災で甚大な被害を受けた岩手県大槌町で、津波によって寺を失い、住職の父親と後継ぎの長男の行方が分からないながらも、家族を失った被災者のために再起した僧侶がいる。
葬儀を希望する檀家(だんか)の知人に励まされ、「少しでも、被災者の心を癒やすことができれば」と、避難所暮らしをしながら読経を続けている。
大萱生良寛(おおがゆうりょうかん)さん(52)が副住職を務める江岸寺(こうがんじ)は、室町時代に創建された曹洞宗の寺院で、町の中で最も古い寺の一つとされる。海岸から約500メートルと海に近いが、1960年のチリ地震津波でも被害はなく、津波の避難場所になっていた。
今回の大震災でもお年寄りら約100人が避難。大萱生さんは裏山へ逃げるよう呼び掛けたが、足腰の弱いお年寄りら約30人は境内や本堂に座り込んでいた。
地震から約30分後、「津波だ」。裏山に避難していた長男の寛海(ひろうみ)さん(19)が、慌てて駆け降りて来るのが見えた。その直後に庫裏の壁から黒い水が噴き出してきた。濁流は本堂やお年寄りらをあっという間にのみ込んだ。水中で必死にもがき、「ここだあ」と手を挙げて叫び続けていると、裏山に避難した人たちに担ぎ上げられた。
生き残りはしたが、本堂は炎に包まれ、鉄骨だけの無残な姿になった。寛海さんと父の住職秀明(しゅうめい)さん(82)は行方不明のまま。一人息子の寛海さんがいなくなったダメージはあまりに大きかった。「愛知の大学で仏教を学んでいて、いつかは後継ぎに、と考えていたんです。たまたま帰省していて、こんなことになるなんて……」。避難所で、ふさぎ込む日々が続いた。
そんな時、幼なじみで檀家だった50歳代の男性が避難所を訪ねてきた。両親を失っていた。「法衣や数珠がなくても構わない。お前に葬儀をやってほしいんだ」。そう言われ、目が覚めた。今こそ、被災者のために働かなければならない。落ち込んでいた自分を恥じた。
親戚の僧侶から法衣を借り、4月1日、幼なじみの男性の家の墓の前で、両親の葬儀を執り行った。
その後、散り散りになっていた檀家の人たちから連絡が入るようになり、火葬場に出掛けたり、遺族宅に出向いたりして読経を続けている。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110405-OYT1T00600.htm
また、「曹洞宗北海道管区教化センター」のリンク先の記事には、副住職の弟、大萱生知明氏の過酷な体験が紹介されている。
http://www.soto-hokkai.net/nece.html
奇妙な形の鳥居がある。
余りに背が低い鳥居。
元々この形で作られたのではなく、何かの理由で一部が壊れた後、活用できる部分だけで作り直したのであろう。
鳥居はこの祠の前に立っているが、何を祀っているかは分からず。
「愛宕山」。
おそらく石祠も愛宕を祀っているのだろう。
また、「町道愛宕山線」の名前の由来にもなっているものと思われる。