2011年12月12日

中央公民館周辺、午前11時10分

【投稿日:2012年7月16日】

城山城址へは大槌小学校の校門前から町道愛宕山線を通って行くが、途中に中央公民館・体育館がある。
帰路に中央公民館に寄ってみた。

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「城山公園」。
現在地は地図の一番右。
高台となっており、町を見下ろすことができる。

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江岸寺墓地。

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同じ位置から少し右。

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更に右。

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少し位置を変えて、墓地の下部を見る。
整地された空間が江岸寺のあった場所と思われる。
江岸寺については、以下、2011年4月5日付『読売新聞』を引用。
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寺失い法衣なくても…被災僧侶、再起の読経

 東日本大震災で甚大な被害を受けた岩手県大槌町で、津波によって寺を失い、住職の父親と後継ぎの長男の行方が分からないながらも、家族を失った被災者のために再起した僧侶がいる。
 葬儀を希望する檀家(だんか)の知人に励まされ、「少しでも、被災者の心を癒やすことができれば」と、避難所暮らしをしながら読経を続けている。
 大萱生良寛(おおがゆうりょうかん)さん(52)が副住職を務める江岸寺(こうがんじ)は、室町時代に創建された曹洞宗の寺院で、町の中で最も古い寺の一つとされる。海岸から約500メートルと海に近いが、1960年のチリ地震津波でも被害はなく、津波の避難場所になっていた。
 今回の大震災でもお年寄りら約100人が避難。大萱生さんは裏山へ逃げるよう呼び掛けたが、足腰の弱いお年寄りら約30人は境内や本堂に座り込んでいた。
 地震から約30分後、「津波だ」。裏山に避難していた長男の寛海(ひろうみ)さん(19)が、慌てて駆け降りて来るのが見えた。その直後に庫裏の壁から黒い水が噴き出してきた。濁流は本堂やお年寄りらをあっという間にのみ込んだ。水中で必死にもがき、「ここだあ」と手を挙げて叫び続けていると、裏山に避難した人たちに担ぎ上げられた。
 生き残りはしたが、本堂は炎に包まれ、鉄骨だけの無残な姿になった。寛海さんと父の住職秀明(しゅうめい)さん(82)は行方不明のまま。一人息子の寛海さんがいなくなったダメージはあまりに大きかった。「愛知の大学で仏教を学んでいて、いつかは後継ぎに、と考えていたんです。たまたま帰省していて、こんなことになるなんて……」。避難所で、ふさぎ込む日々が続いた。
 そんな時、幼なじみで檀家だった50歳代の男性が避難所を訪ねてきた。両親を失っていた。「法衣や数珠がなくても構わない。お前に葬儀をやってほしいんだ」。そう言われ、目が覚めた。今こそ、被災者のために働かなければならない。落ち込んでいた自分を恥じた。
 親戚の僧侶から法衣を借り、4月1日、幼なじみの男性の家の墓の前で、両親の葬儀を執り行った。
 その後、散り散りになっていた檀家の人たちから連絡が入るようになり、火葬場に出掛けたり、遺族宅に出向いたりして読経を続けている。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110405-OYT1T00600.htm

また、「曹洞宗北海道管区教化センター」のリンク先の記事には、副住職の弟、大萱生知明氏の過酷な体験が紹介されている。
http://www.soto-hokkai.net/nece.html

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奇妙な形の鳥居がある。

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余りに背が低い鳥居。
元々この形で作られたのではなく、何かの理由で一部が壊れた後、活用できる部分だけで作り直したのであろう。

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鳥居はこの祠の前に立っているが、何を祀っているかは分からず。

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「愛宕山」。
おそらく石祠も愛宕を祀っているのだろう。
また、「町道愛宕山線」の名前の由来にもなっているものと思われる。

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大槌城址、午前10時50分

【投稿日:2012年7月16日】

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大槌小学校から城山に向かう道があり、頂上近くまで車で行くことができる。

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「 大槌城跡
 「城山」として町民から親しまれている「大槌城跡」は、大槌氏累代の居城跡である。
 建武年間(1334〜)の頃、遠野横田城主阿曽沼朝綱が閉伊郡の沿岸地方治安のために、自分の次男遠野次郎を当地に派遣する。遠野次郎は大槻氏を称し、以来最後の城主孫八郎政貞が自刃して果てる元和2年(1616)までの280年ほどの間のことである。
 永享9年(1437)頃、時の城主大槻孫三郎は南部13世守行の大軍と戦ったが、堅固な要塞ともいえる城により守行公も攻あぐんで、大槻氏は存亡の危機を免れた。
 その後大槌氏は南部氏の下で平田から豊間根までを支配し、三千石を与えられた。孫八郎政貞は、名産の塩鮭を江戸に送り「南部の鼻曲鮭」として珍重され声価を得たという。しかし、その後、南部氏の謀計によって大槌氏は滅亡する。
 城跡は標高120〜140mに位置し、稜線上の施設を西から東にみると、西端基部を空堀で断ち切り、それに接して砦(おそらくは物見的なものか)、さらに再び堀で区切られ主郭となる。主郭(本丸)には帯郭を伴う。主郭の先端から東方へ階段状に二の郭・三の郭・四の郭と標高を下げ、東西400mの長さとなっている。平場の総面積は7,540u(2,284坪)となる。
 大槌氏の滅亡後派遣された城代もこの城を居城としていたが、寛永9年(1632)代官制に移行して、代官所は山麓の四日町に設けられた。一方大槌城は、万治2年(1659)、南部氏の命により取り壊されて消滅した。
 平成4年9月4日、県の史跡に指定される。
          大槌町教育委員会」
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「大槌城跡全体図」
現在地は「西の砦」と「主郭」の間。

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主郭。

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「大槌城址」

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大槌湾。
周囲の樹木に遮られて展望は今一つ。

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北方向。
大槌川沿いの地域。

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二の郭。

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「二の郭(二の丸)跡」
奥は二の郭の東端。

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南方向。

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南東方向。
大槌湾。

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東方向。

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「ひょっこりひょうたん島」のモデルと言われる蓬莱島。

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大槌漁港。
奥に東京大学の国際沿岸海洋研究センター。

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小槌川水門。

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大槌城址の東端、「高館」。

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大槌稲荷神社前の「大安タクシー」。

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白石地区の「松島」。

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「三の郭」に向かう道。
ここで引き返す。
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大念寺、午前10時30分

【投稿日:2012年7月16日】

大槌小学校のすぐ裏に浄土宗大念寺がある。
時事通信社は2011年4月14日、下記記事を配信した。(元リンクが切れているため、転載しているサイトからの再転載)
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宗派問わず全て供養=唯一残った寺、遺骨預かる―岩手

 津波で町の半分が浸水した大槌町で、唯一被災を免れた浄土宗の寺「大念寺」。寺は宗派を問わず、全ての遺骨を預かり、供養している。
 「落ち着くまで預かってもらえませんか」。津波で町の半分が浸水した岩手県大槌町で、唯一被災を免れた浄土宗の寺「大念寺」には、毎日のように骨箱を抱えた町民がやってくる。大半の遺族が津波で家を失い、避難所に身を寄せているため、遺骨の安置場所がないのが現状だ。「亡くなった人が安らかに眠れるように」。寺は宗派を問わず、全ての遺骨を預かり、供養している。
 町立大槌小学校の裏の高台にある大念寺には、津波が押し寄せる直前、200人近くが逃げ込んだ。「小学校の校庭で波が渦を巻き、あらゆるものをのみ込んだ」。寺から様子を見ていた住職の大萱生義明さん(79)は振り返る。
 津波が引くと今度は、近くのガソリンスタンドが爆発。寺の近くまで火が迫ってきたという。町にあった他の二つの寺は津波や火災で消失。「まさに地獄絵図のようだった。この寺が助かったのは奇跡」と、妻の美枝さん(78)は今でも震え上がる。
 「世話になっていた寺がなくなったので…」。町民が遺骨を持って寺を訪れるようになったのは、地震発生から数日後。義明さんらは全ての遺族を寺に招き入れ、一回一回お経をあげて弔った。多くの遺族は「必ず迎えに来るから」と語り掛け、遺骨に花や菓子を供えた。中には、頻繁に花を取り換えに来る人もいるという。
 遺骨は日に日に増え、寺の一室は足の踏み場もないほどの骨箱で埋め尽くされた。美枝さんは「この寺はこれまで何度も津波を乗り越えたが、こんな大津波は初めて。無事だったことに感謝しながら、町を見守り続けたい」と涙ぐんだ。 
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また、大阪大学准教授・稲葉圭信氏の「被災地における宗教施設・宗教者の災害救援活動の調査報告」の冒頭に、2011年9月27日に行われた大萱生(おおがゆう)修明副住職へのインタビューの内容が載っている。
http://keishin.way-nifty.com/jp/files/110927-30report1021.pdf 

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山門へ向かう坂道。

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鐘楼。

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「あの世でもこの世でも人を救う六地蔵」

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歴代住職の墓地。

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「三界萬霊」

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大槌小学校周辺、午前10時20分

【投稿日:2012年7月15日】

地震発生後、高台に避難した大槌小学校の児童は全員無事だったが、親が迎えに来た児童の7名が犠牲となった。
大槌町では震災で使用できなくなった大槌小学校・安渡小学校・赤浜小学校・大槌北小学校・大槌中学校の計5校の仮設校舎を「大槌ふれあい運動公園」のサッカー場に建設し、2011年9月20日に小学校の開校式が行われた。

2012年5月6日(日) 放送のNHKスペシャル「震災を生きる子どもたち ガレキの町の小さな一歩」で、大槌小学校児童の震災後の様子が紹介された。
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2012/0506/

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「理容 佐々木」

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「大槌復旧復興有限責任事業組合」

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歩道橋。

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小高い場所に石碑がある。

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奥は大槌小学校のグラウンド。
大槌町の仮設プレハブ庁舎が建っている。

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「史跡 大槌城址
 大槌氏の発祥は、遠野横田城主阿曽沼氏が閉伊郡の沿岸地方治安のために、自らの二男遠野次郎を当地に派遣したことによる。建武年間(一三三四〜)から正平年間のことであったという。遠野次郎は大槻氏を称し、以来最後の城主孫八郎政貞が自刃して果てる元和二年(一六一六)までの二八〇年余の間、大槌城は同氏累代の居城として栄えた。
 永享九年(一四三七)頃、時の城主大槻孫三郎は南部十三世守行の大軍と戦う。諸書に、「此の城は蒼海を前にして、高山を後にして、大槌小槌のニ川を左右にし、城をその中央に占め、之を攻めれども陥らず」とあり、また「所は屈竟之要害後は 峨々たる山に続き、前は清々たる荒磯にて十尋立ぬ所なれば、守行公も攻あぐんで和談にこそしたりけり」とある。大槻氏は存亡の危機を免れた。
 その後大槌氏は南部氏の下で三千石を与えられ、平田から豊間根までを支配した。孫八郎政貞は、名産の塩鮭を江戸に送り「南部の鼻曲鮭」として珍重され声価を得たという。
 しかし、後日南部氏によって大槌氏は滅亡する。
 昭和六十三年十一月三十日 大槌町指定文化財となる。
    平成三年三月
          大槌町」

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石碑の前から南西方向を見る。

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南東方向。
中央・奥に小槌川水門。(要拡大)

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「史跡 大槌代官所跡
 寛永九年(一六三二)、南部藩はここに代官所を置いて、南は平田村から北は豊間根村、内陸方面の小国・江繋村に至る「大槌通」二十三カ村を統治させた。代官は盛岡から派遣されたが、ほとんどの場合下役および物書(書記)として地元の士分の者若干名が勤務して、実務を担当していた。
 代官所の隣には山奉行のいる山所(役所)が建っており、街道沿いの入口には高札が建てられて諸禁制法度の旨を記していた。
 政治・経済の中枢となった代官制度も、明治二年(一八六九)に廃され、大槌代官所備品の大半は入札によって払い下げられた。小れいじん筒(鉄砲)、刀類、弓矢、袖がらみなどから、提灯、包丁などまであった。
 代官所跡は、現在の大槌小学校敷地内に位置する。
  平成二年十二月
    大槌町教育委員会」

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大槌小学校の校門。
向かって右側の門柱には金属プレートに「大槌小学校」とあるが、左側は「大槌町役場」。

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「町民課」

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突き当り、「大槌交番」。

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「大槌町役場 仮庁舎配置図」

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「釜石警察署 大槌交番」
「大槌交番災害対策本部」

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「大槌小学校校歌」

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プレハブの理容店ではクリスマスツリーの飾り付けが行われている。

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師走の小槌神社とその周辺、午前10時10分

【投稿日:2012年7月15日】

三ヶ月ぶりに小槌神社に参詣する。

2011年7月11日に初めて参詣したときの様子はこちら。
http://chingokokka.sblo.jp/article/57041243.html
2011年9月15日、再訪時の様子はこちら。
http://chingokokka.sblo.jp/article/57056635.html

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第二鳥居の横の駐車場。
綺麗に整備されている。

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駐車場から見た復興食堂の白テント。

「おらが大槌復興食堂」
http://oragaotsuchi.web.fc2.com/top.html

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左が「観音神輿」、右は「明神神輿」。
いずれも17世紀に作られたものという。

「小槌神社社人会」
http://koduti.web.fc2.com/

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「仮設住宅用
 簡易神棚
 無料授与」

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県道260号線、西方向。
簡易建物の「復興食堂」以外にも建物の新築が進み、交通量も増えている。
中央・奥のショッピングモール「マスト」は12月22日に再開したとのこと。(要拡大)

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東方向。

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「おらが大槌復興食堂」

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「復興食堂」を裏から見る。
一番右は大槌小学校。(要拡大)

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中央、小槌神社。(要拡大)
小槌神社の後方は城山。

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東方向。
中央・奥に小槌川水門。(要拡大)

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大槌小学校へ向かう。
posted by 神宮威一郎 at 10:10| Comment(0) | 大槌町