2012年01月05日

朝日新聞より

【掲示板への投稿を転載します。】

朝日新聞より 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 1月 5日(木)12時40分30秒

今日の朝日新聞に、被災地の寺社復興と憲法の政教分離原則の関係を取り上げている記事が出ていました。
このような問題意識を持った記事は朝日新聞では珍しいように感じますので、全文保存しておきます。
冒頭に出てくる「約1100戸あった氏子のうち約8割の家が流失」した南三陸町の神社は、先月、この掲示板で取り上げた上山八幡宮でしょうね。
他の神社は、ここに書かれた内容だけでは、ちょっと特定できません。
仙台市若林区荒浜の浄土寺は私も何回か参詣し、昨年10月14日に荒浜海水浴場と荒浜地区を歩いたときに浄土寺の墓地の写真もかなりの枚数を撮りました。
経済的水準が高い仙台市では、被災地も地域によっては急速に復興が進み、見違えるようになっている場所もありますが、荒浜地区は「災害危険区域」に指定されてしまったため、全く変化がないですね。
個人的な意見としては、住宅と異なり、墓地は沿岸部のままでいいんじゃないかと思いますけどね。
寺の建物と墓地が離れているお寺など日本全国どこにでもありますから、何でこのお寺の住職さんが墓地の移転にこだわるのかが理解できないですね。

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被災地の寺社、再建できず 檀家・氏子被災で資金難

 東日本大震災の被災地で、寺や神社の再建が行き詰まっている。政教分離の原則などで直接の公的支援を受けることができず、檀家(だんか)や氏子らが被災したため震災前のようにお布施などを募るのも難しい。地域の風習を支えてきた寺社が消えようとしている。
 「ここまでひどいとは……」。宮城県南三陸町の神社では、大みそかから元旦にかけての参拝客が約30人しか訪れなかった。例年の10分の1だという。
 津波で壊滅した地域にあるこの神社では、約1100戸あった氏子のうち約8割の家が流失。親族に死者が出たため初詣を自粛する人も多かった。「氏子の方々が果たしてこの地域に戻って来るか。なんとか踏ん張りたいが、現状を考えると何とも言えない」と宮司(75)はうなだれた。
 すでに神事を執り行えなくなった神社もある。同町沿岸部の地区では元日、数えで33歳になる女性の「厄払い」をする。例年は厄払いを受ける側から、地域に二つある神社のどちらかに神事を依頼してきたが、今年はいずれからも「もうできない」と断られた。隣の地区の神社に頼んで、ようやく実施できたという。参加した女性は「神社さんにも色々な事情があるのはわかる。でも、地域の神社が消えてしまうのはやっぱり寂しい」と話した。
 同町の別の神社は、高台の本殿は無事だったものの、境内にある社務所や鐘つき堂は壊れ、復旧の見通しは立っていない。母親が今も行方不明という宮司(69)は「この地域では氏子に維持金などを求めていないし、わずかな寄付やお札の代金などで細々と運営している状況だ。子どもに跡を継いでくれとはとても言えない」と打ち明ける。

■政教分離 公的支援なし
 仙台市若林区荒浜の浄土寺の墓地には、横倒しになったままの墓石が並ぶ。東京から墓参に訪れた会社員の男性(56)は、一人暮らしの母(79)を震災で亡くしたが、墓石が壊れ、納骨できないという。「早く落ち着かせてあげたいんだけどね」と話し、土台だけになった墓に手を合わせた。
 寺は本堂や庫裏が津波で根こそぎ流失。檀家約140人も犠牲になった。市は昨年12月16日、荒浜地区の大半を住宅の新増築ができない「災害危険区域」に指定。跡地を公園などの形で再開発する計画だ。住職の中澤秀宣さん(62)は檀家に「墓石の修復は最小限で」と書いた文書を送った。
 中澤さんと家族も元の場所に住めなくなった。礼拝施設だけなら元の場所で建て直すこともできるが、檀家も今後、集団移転するため、移転先の近くに寺を再建することを考えている。しかし、住民から移転の希望が出ている4キロ内陸の場所で、今と同じ広さの境内地と墓地を購入すると6億円かかる計算だ。「とてもそんなお金を、全てを失った檀家に(お布施として)求められない」と中澤さんは嘆く。
 新しい墓地をいつ造れるか分からないため、元の場所には、宗派からの義援金でプレハブの小さな「仮本堂」を建てることを決めた。3月11日の「一周忌」に間に合わせたいという。檀家の安達肇さん(78)は「寺は地域の核。行政ももう少し支援できないものか」と話す。
 東日本大震災で被災した個人や法人の事業者の建物のうち、住宅を兼ねる事務所や店舗などには国の防災集団移転促進事業で移転費や解体費などの助成がある。事業用途のみの建物に同じ助成はないが、自治体が移転元の土地を買い取ることはできる。
 しかし、文化庁によると、寺や神社などの宗教法人は、憲法が定める「政教分離の原則」により、直接的な公的支援を受けることができない。集団移転に伴うこうした助成も対象外で、庫裏など住居を兼ねる施設への助成が法的に可能かどうかの解釈も定まっていない。
 全日本仏教会と神社本庁の昨年7月末までの集計では、震災で179の寺院、309の神社が全半壊した。同5月までに住職21人、神職8人が死亡、行方不明になっている。(中村信義、三浦英之)
http://www.asahi.com/special/10005/TKY201201040562.html
posted by 神宮威一郎 at 12:40| Comment(0) | 過去ログ(代参、非公開)

2012年01月02日

「お正月様」

【掲示板の投稿を転載します。】

「お正月様」 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 1月 2日(月)05時57分31秒

宮城県の神社では「お正月様」という「大国主神」「事代主神」「五穀豊穣」「大年神」の神像が書かれた絵を配布し、各家庭では神棚に飾っていますね。
地元の人にとっては当たり前でしょうが、全国的には結構珍しい風習なんじゃないですかね。
http://www.miyagi-jinjacho.or.jp/
http://www.miyagi-jinjacho.or.jp/negai.html

今日はこれから気仙沼市唐桑町の早馬(はやま)神社などを廻ってきます。
早馬神社の「きりこ」(お正月飾り)はデザインが独特のようなので、実物を見るのが楽しみです。

>筆綾丸さん
やっと『贈与の歴史学』を入手し、読み始めました。

posted by 神宮威一郎 at 05:57| Comment(0) | 過去ログ(代参、非公開)

2011年12月28日

宮城の正月飾り(キリコ)

【掲示板への投稿を転載します。】

宮城の正月飾り(キリコ) 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年12月28日(水)07時26分55秒

私は今野家の建物よりも「お正月飾り」に興味を持っています。

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12月15日
旧河北町皿貝の大日靈神社(おおひるめじんじゃ)でオショウガツサマを持ってくる。大日靈神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の別称である。
同神社では12月15日頃から500戸の氏子に毎年頒布する。先々代までは10軒ほどの宿が決まっていて、その家で幣束などを製作していた。今野家は宿のひとつで、3軒の別家分も合わせて宮司が切っていた。
現在はあらかじめ製作したものを配布している。幣束等のお礼は米1升。
15日にうけた幣束はザルに入れ神棚に上げておく。

12月28日
午前に餅をつき、メンダマギを作る。木はモミジで枝は7本と5本のを使う。
午後は松迎え。松を迎える場所にはお供えを上げて拝む。

12月31日
午前に注連縄を作る。風呂に入り、身を清めてから、オカミで作業する。
日が変わる最後に、アクマハライの幣束を持って「アクマハライ、アクマハライ」と唱えながら各部屋を廻り、悪魔祓いをする。終わるとアクマハライの幣束は冠木門の近くに挿す。

http://www.thm.pref.miyagi.jp/guidance/institution/konnoke_shousai3_shogatu11.html

この中で特にすごいのは大日靈神社が配布するキリコ(切り紙)で、大変なレベルの芸術作品ですね。
大日靈神社は元は修験なのですが、宮城県、特に北部沿岸部の修験系の多くの神社で、お正月飾りとして非常に複雑な図柄のキリコを氏子に配っています。
私は、キリコは復興のために使えるのではないか、と思っています。

あるボランティア団体が推奨している「浜のミサンガ」も悪くはないのですが、そんなものより遥かに芸術性が高い作品を、被災地の神社は既に持っているんですね。

「浜のミサンガ」
http://www.sanriku-shigoto-project.com/about/
posted by 神宮威一郎 at 07:26| Comment(0) | 過去ログ(代参、非公開)

2011年12月22日

大山講

【掲示板に投稿した記事を転載します。】

大山講 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年12月22日(木)06時13分0秒

「比較的分布地域が限定されている講」の例として、大山講についても『国史大辞典』を引用しておきます。
なお、『国史大辞典』は改行が一切なく、びっしりと書かれているのですが、さすがに掲示板では読みにくいので、適宜改行しました。「代参講」「伊勢講」も同様です。

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おおやまこう 大山講

 相模の霊山大山へ登拝することを目的に結集された信仰集団。雨乞に霊験を示すというので、はじめは山麓農村からの信者の崇拝をうけていた。真言修験の道場となってからは、山伏が先達となって信者を案内する風がおこり、相模原を中心に崇敬結社の講が形成されるに至った。
 成立の時期は明らかでないが江戸時代になると、本山の雨降山大山寺が積極的な布教を心がけ、その霊験性をかかげる祈祷札を村々に配布して廻ったり、信者から初穂や祈祷料を徴収する御師檀廻の制度が確立した。そのため大山講は相模のみならず関東・東海地方にくまない成立をみせた。
 奥の院に石尊大権現を祀ることから、例祭の時と六月二十八日に参拝するのを特に大山詣りまたは石尊詣りといった。
 一般に六月中の登拝を初山といい、七月十三日から十七日の盂蘭盆期間中の参拝を盆山と称し、以前はそれ以前の入山は厳禁されていた。
 近世の江戸市中では、ことに盛んな大山詣りが行われ、町内の各所にしきりと大山講の結成がみられ、落語の題材に採用されるほどの盛況をみせた。それにつれて入山の規制も弛められ、夏季は登拝の道者が群をなして雑踏をきわめた。
 江戸で結成された大山講の石尊参りは、まず両国川で水垢離(みずごり)をとってから白衣に着換え、先達の案内で出発する。講員は各自に大願成就と墨書した木太刀を携え、これを奥の院本尊の前へ奉納し、すでに奉献してあるものと交換して持ち帰り、家の神棚に安置して護符とした。
 木太刀の奉納は、石尊社の神体の石剣にあやかったと伝えられ、形の大きなものを誇りとする風があった。
 当時殷賑をきわめた大山街道の道しるべは、今も東京都の近郊に建っている。

[参考文献]村上専精・辻善之助・鷲尾順敬編『(明治維新)神仏分離資料』中、桜井徳太郎「門前町の移り変わり─宗教都市成立の歴史民俗学的考察─」(『祭りと信仰』所収)
桜井徳太郎
posted by 神宮威一郎 at 06:13| Comment(0) | 過去ログ(代参、非公開)

2011年12月21日

伊勢講

【掲示板に投稿した記事を転載します。】

伊勢講 投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2011年12月21日(水)19時06分33秒

次に全国的に分布している代参講の例として、同じく『国史大辞典』から「伊勢講」を引いておきます。
桜井徳太郎氏の文章は独特で、かなり古風な感じがしますが、最近の歴史学者の文章とは異なる魅力がありますね。

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いせこう 伊勢講

 伊勢信仰にもとづいて結成された信者の集団。大別して伊勢神宮への参拝を目的とするものとそうでないものとに分けられる。しかしながら大部分は参宮講で、また神明講とも称された。
 参宮を希望するものが組織をつくり、旅費などを頼母子方式で醵出貯金したり、講員の協同労働から得た収入や共有の田畑(伊勢講田・伊勢講畑)や山林(伊勢講山)の収益を経費にあてたりする。
 伊勢に近い地方では、講員全員が参宮する惣参方式がとられるが、遠隔地のため個人の資力で費用の負担ができない場合には、籤引きで二、三人の代表者をえらぶ代参形式をとった。
 代参は多く春先の農事始めの前か秋の収穫作業完了後の農閑期に施行され、二年参りといって歳末年頭にわたることもある。
 代表者の出発に際しては、講中が伊勢講宿に集まってデタチの祝いをする。まず天照皇大神の掛軸を床の間に掲げて礼拝してから宴を張り、餞別をおくる。全行程を徒歩にたよったころは、水盃をかわして訣別した。
 潔斎を重んずる所では、家の周囲に注連縄を張り連日水垢離をとり、特別に建てた小屋で精進してから出発した。そのとき講中や縁者・知友が村境まで見送る慣行も見られた。留守宅では参宮道中の無為を祈念して鎮守社に日参したり、疲労を癒すため門口につくった藁人形に湯水を掛けてねぎらったりした。また講員親類から留守見舞が届けられた。
 参宮道者が伊勢に着くと、講ごとに指定される御師の宿坊に泊り、御師の引道で内外宮を参拝し、また太々神楽を奉納した。一生に一度は必ず伊勢参りをしたいと念願する庶民は少なくなかった。伊勢から帰着のときにも村中が村境まで出迎えに出た。それをサカムカエと称し、出会った所で持参の酒食を開き、無事を祝福した。また華やかに飾った馬に参宮者をのせ、伊勢音頭を高らかに歌って村入りする所もあった。その晩はデタチと同様に講中が集まって賑やかな祝宴を催した。それも東日本でハバキヌギ、西日本ではドウブレという。旅装を解いて道中のほこりをことごとく洗い流すという意味である。その席上、勧請した祓札や伊勢土産を各人に配布する。
 参宮を直接の目的としない伊勢講も開かれる。多くは毎月日を決めて講宿に参集し大神宮の祓札や掛軸の前で神事を行い、そのあとで直会の酒食を摂る。このとき伊勢から配布された神札を講員に配給する。この神札はおのおのの神棚に収めて朝夕礼拝する。家内・講中・部落の平穏無為と息災延命、五穀豊穣、福徳円満を祈請するためであり、これによって豊産が招来され、すべての禍厄が除去されるものと信じていた。
 民間における伊勢講は、元来こうした部落共同体に根をおく素朴な信仰形態を基盤にしながら成立し、やがて前者のような参宮形式をとる組織へと発展したものと思われる。そしてその媒介役を果たしたのが伊勢御師であった。
 伊勢神宮は、もともと民間の私幣をかたく拒んでいた。そのため律令体制下の古代では、民衆の参宮は不可能であり、ほとんど無関係な存在であった。それを民間に紹介し国民の各層に滲透させ日本列島の各地に普及させたのが伊勢御師であり、その時期は中世以降であった。
 古代国家によって生活が保証された神宮の祠官たちは、その崩壊によって自活の道をえらばねばならなくなった。そこで多くは、伊勢神宮の霊験を説き、その信仰を伝道するための御師となって諸国を巡回し、神符・神札・暦などを配布し、その代償として米銭などの初穂料を徴収した。これらが神宮経営の経済を支え、祠官の活計を維持することとなった。
 また一方、御師の地方檀回によってはじめて神宮の存在を知った民衆は、その指導のもとに伊勢神宮崇拝の信仰集団を組織するとともに、御師との間に緊密な師檀関係を結ぶに至った。
 この傾向は戦国時代から江戸時代にかけてますます強まり、地方住民の遠隔地参詣の要求とも合致して、伊勢参宮の風を助長した。特に六十年ごとに訪れる御蔭年を期しての御蔭参や、青年子女・小前・奉公人などの抜参が流行し、江戸時代中期には参宮道者の往来で道路が狭くなるほどの盛況を呈したといわれる。

[参考文献]桜井徳太郎『講集団成立過程の研究』、同『日本民間信仰論増訂版』、新城常三『社寺参詣の社会経済史的研究』、井上頼寿『伊勢講と民俗』
(桜井徳太郎)
posted by 神宮威一郎 at 19:06| Comment(0) | 過去ログ(代参、非公開)