「仮設閖上魚市場」を振り返る。
日和山。
山上に二人連れ。
日和山より鳥居越しに瓦礫焼却施設を見る。
同じ位置より少し右。
風が強い。
「閖上・日和山」(2011年9月8日)
http://chingokokka.sblo.jp/article/55274125.html
「閖上の吹石一恵さん」(2011年12月1日)
http://chingokokka.sblo.jp/article/51386745.html
西方向。
以下、時計回りに撮影。
右端に見える小さな丘は「閖上地区 宅地嵩上げ等現地確認場」。(要拡大)
東禅寺。
名取川と閖上水門。
「閖上水門付近の石仏」(2012年4月12日)
http://chingokokka.sblo.jp/article/55257378.html
左隅、石積みの奥の防波堤に上って周囲を撮影した後、海岸沿いの工事現場を見ながら南方向に移動した。
左は「富主姫神社」、右は「閖上湊神社」。
もともと津波前の山上には「富主姫神社」の社殿があったが、2011年06月9日に湊神社の「分霊」も遷された。
その間の事情は2011年6月10日付河北新報記事に詳しい。
リンク先の一番下に同記事を引用している。
「閖上・湊神社」(2012年4月12日)
http://chingokokka.sblo.jp/article/55258081.html
日和山の石段前に設置されている掲示板。
旧「富主姫神社」の社殿の写真。
『閖上風土記』(名取市閖上郷土史研究会岡崎一郎編纂、名取市閖上字町小野晋平発行、昭和52年)という本に次のような記述がある。(p230以下)
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・日和山(法華山)
閖上より東一町ほどの所にあり、船の出入・気象・海上の状態等を見た所である。今の救難所の南にあたり、橋浦弁蔵氏邸の東北にあった。別名法華山ともいう。山上に碑があったが、後春日氏の堂の境内に移された(郷土誌)。
堂は法華道場でのち水害により碑もろとも流された。日和山は単なる小高い丘であったらしいが、閖上八景のうちに「日和山帰帆」「法華山秋月」があった。当時の日和山の面影はいまはない。
・築山
大正九年在郷軍人会分会の発起で、当時の村民全体で築いた山である。当時第二師団長であった中島中将も、村民とともに土砂を背負われ、新丁が中島町と呼ばれる由来となった。築山落成と共に、かつて宮下橋の下にありその後湊神社に移転されてあった「富士姫弁財天」が安置された。山上にある「山神」の碑は、もとの日和山山頂にあったものが移転されたのである。
ヤンダ箱
築山工事は、橋浦茂三郎氏が総監督で、現場監督は曽我正治氏が当った。各区に人夫を割当て、茅地のうわ土を掘りとり、もっこと、紐を引くと底が開くようになっているヤンダ箱といわれる箱を背負った。やんだやんだ(嫌だ嫌だ)と運んだのでヤンダ箱になったというが、真偽のほどはわからない。昼食にパンが配られたので、茂三郎氏のことがいつからかモサパンとなり、落成祝いの仮装行列にみかん箱の下駄をはいて、のんきな父さんを演じた小斎不可蔵氏はノンキと呼ばれるようになった。勤労奉仕のほか日当六十銭の人夫も使ったので、若い婦女子のいい収入にもなったという。
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また、同書p259以下には次の記述がある。
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・弁財天
昔は閖上新丁地地蔵尊の西、今の宮下橋の南、富主島と呼ばれる所に鎮座されていたが、貞山堀開削のため湊神社境内に遷された。富主姫弁財天と申しているが、現今は富主姫神社と称している。
昔閖上上町伊藤秀吉氏の先祖が船出して房州沖で難に遭い、竹生島弁財天に祈願して無事帰郷することができたので、琵琶湖にある竹生島弁財天を勧請して氏神にしたのによるという。
その後にいたり、この弁財天の祭日に船出した漁船が海難に遭ったことから、浜中こぞって祭ることになり伊藤家から富主島に遷座された。祭日は伊藤家での供物等供え済まないうちは、神官ものりとを奏せられなかったと伝えられている。
なお伊藤家で鍵を所持していたのであるが、明治四十一年湊神社へ移された際、橋浦甚五郎氏ら伊藤家に交渉し、伊藤秀吉氏は快く鍵を湊神社社掌に譲られたという。祭日は旧四月三日。盛大な祭典が施行されている。(郷土誌)
その後弁財天は、大正九年築山(日和山)落成とともに湊神社境内より、同山頂に鎮座され現在にいたっている。
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最初に閖上を訪問した時は、富主姫というのはずいぶん珍しい神名だなと思ったが、富主島に鎮座する竹生島弁財天という意味であることを同書で知ることができた。