「今野家住宅」
http://www.thm.pref.miyagi.jp/guidance/institution/konnoke.html
大日るめ神社は北上川(追波川)から3キロメートルほど北に離れており、津波の被害はない。
昭文社の『東日本大震災復興支援地図』では皿貝川以北、大日るめ神社の手前500メートル付近まで津波で浸水したように描かれているが、原口・岩松『東日本大震災津波詳細地図上巻』(古今書院)では浸水域は皿貝川までとなっている。
後者が正しい。
節の多い木を縦に二つに割って門柱としている。
これも元々は修験の寺院だったことの反映か。
「宮城県指定無形民俗文化財
皿貝法印神楽(さらがいほういんかぐら) 平成二年一月二十六日指定
皿貝法印神楽の由来は、大日※(おおひるめ)神社宮司を務める及川家の口伝によれば、元和二年八月(一六一六)、当地の成就院(現大日※神社)の法印であった久峯重光が、修験道本山派の本山である聖護院の門主様御入峰のお供を命ぜられて京へ上り、帰郷後、その際に習得した能を原型とし、『古事記』を台本にして編み出したものと伝えられている。
明治以前は、祭礼等においての神楽舞の奉納は法印達で行ったが、明治初年の神仏分離により離職した法印が多く、神楽舞の奉納が不可能になった。
皿貝村宮司の及川友世氏はこれを憂い、神楽の存続を図るために、面(神楽面)、千早(神楽衣装)等を離職した神官より購入し、舞法は、当時、姫舞(女形)の達人は樫崎村の榊田神官、責舞(荒形)の名手は橋浦女川村の高橋神官であったので、両氏を皿貝に招いて一族に相伝し、次に信仰の厚い氏子に習得させて、大日※神社外八社の供え神楽とした。
その後、地域住民をはじめとする関係各位からの熱心な支援を受けながら、氏子有志により代々受け継がれ、現在は、地元氏子青年たちを中心とした皿貝法印神楽保存会が地域と一体となって、この貴重な文化遺産の伝承に務めている。
平成四年三月一日 桃生郡川北地区教育委員会」
「忠魂碑」
左、読めず。
真ん中は「筆塚」か。
右は「馬頭観世音」。
「湯殿山」
「秋葉山」
参道の右横に「及川家代々奥津城」。
「法印」と書かれた古い墓が多数ある。
いずれも参道の右側。
小さな社の中に白馬の木像が二つある。
奥の白馬は小さく、仔馬を象ったものか。
正面に神社名または祭神を記したと思われる木札があるが、色褪せていて読めず。
石段の奥に本殿。
その少し手前の左側に摂社らしき建物。
「稲荷神社」
石段を登りきると、本殿までの間に、素焼きの焼き物を砕いたのではないかと思われる赤い土が撒かれている。
独特の赤色と黒い枠のコントラストが鮮やか。
この赤い色は元修験の神社に比較的多いのではないか。
参拝を終えて帰路に就く。
石段の手前、赤い土。
右手に白馬二頭のお社。