2012年01月23日

皿貝、大日るめ神社、午後0時30分

多賀城市の宮城県立東北歴史博物館には石巻市北上町橋浦から移築された「今野家住宅」が展示されているが、今野家のお正月飾りの「切紙」は皿貝の大日るめ神社にて作られているものと聞き、同神社に参拝してみた。

「今野家住宅」
http://www.thm.pref.miyagi.jp/guidance/institution/konnoke.html

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大日るめ神社は北上川(追波川)から3キロメートルほど北に離れており、津波の被害はない。
昭文社の『東日本大震災復興支援地図』では皿貝川以北、大日るめ神社の手前500メートル付近まで津波で浸水したように描かれているが、原口・岩松『東日本大震災津波詳細地図上巻』(古今書院)では浸水域は皿貝川までとなっている。
後者が正しい。

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節の多い木を縦に二つに割って門柱としている。
これも元々は修験の寺院だったことの反映か。

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「宮城県指定無形民俗文化財
  皿貝法印神楽(さらがいほういんかぐら)  平成二年一月二十六日指定
 皿貝法印神楽の由来は、大日※(おおひるめ)神社宮司を務める及川家の口伝によれば、元和二年八月(一六一六)、当地の成就院(現大日※神社)の法印であった久峯重光が、修験道本山派の本山である聖護院の門主様御入峰のお供を命ぜられて京へ上り、帰郷後、その際に習得した能を原型とし、『古事記』を台本にして編み出したものと伝えられている。
 明治以前は、祭礼等においての神楽舞の奉納は法印達で行ったが、明治初年の神仏分離により離職した法印が多く、神楽舞の奉納が不可能になった。
 皿貝村宮司の及川友世氏はこれを憂い、神楽の存続を図るために、面(神楽面)、千早(神楽衣装)等を離職した神官より購入し、舞法は、当時、姫舞(女形)の達人は樫崎村の榊田神官、責舞(荒形)の名手は橋浦女川村の高橋神官であったので、両氏を皿貝に招いて一族に相伝し、次に信仰の厚い氏子に習得させて、大日※神社外八社の供え神楽とした。
 その後、地域住民をはじめとする関係各位からの熱心な支援を受けながら、氏子有志により代々受け継がれ、現在は、地元氏子青年たちを中心とした皿貝法印神楽保存会が地域と一体となって、この貴重な文化遺産の伝承に務めている。
    平成四年三月一日 桃生郡川北地区教育委員会」

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「忠魂碑」

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左、読めず。
真ん中は「筆塚」か。
右は「馬頭観世音」。

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「湯殿山」

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「秋葉山」

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参道の右横に「及川家代々奥津城」。

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「法印」と書かれた古い墓が多数ある。
いずれも参道の右側。

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小さな社の中に白馬の木像が二つある。
奥の白馬は小さく、仔馬を象ったものか。
正面に神社名または祭神を記したと思われる木札があるが、色褪せていて読めず。

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石段の奥に本殿。
その少し手前の左側に摂社らしき建物。

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「稲荷神社」

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石段を登りきると、本殿までの間に、素焼きの焼き物を砕いたのではないかと思われる赤い土が撒かれている。

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独特の赤色と黒い枠のコントラストが鮮やか。
この赤い色は元修験の神社に比較的多いのではないか。

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参拝を終えて帰路に就く。
石段の手前、赤い土。

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右手に白馬二頭のお社。

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石巻市河北町七尾、午後0時10分

三陸自動車道の河北インターで降りて北上川(追波川)北岸の県道197号線(北上河北線)を新北上大橋方面に向かう途中、漁船が何艘も浮かんでいたので、車を止めてみた。
新北上大橋の上流6キロほどの地点。

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上流の飯野川橋方向を見る。
右側の疎らな林の陰に小さな漁船が四艘、少し離れて二艘。

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トリミングして拡大。
林の陰の四艘。

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少し左側にもう一艘。

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かなり離れたところにもう一艘。
背景は上品(じょうぼん)山。
市営の上品山牧場がある。
山頂の白い建物は国土交通省の東京航空局上品山レーダーサイト。(要拡大)

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2011年09月11日

海蔵庵(その2)、午前7時15分

【投稿日2012年1月28日】

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板碑群のある高台から長面浦を見る。
流されてきた家がいくつかある。

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坂道を下る。

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左から「金毘羅大権現」「古峯神社」「八大龍王」。

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「弘仁散記念碑」

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左から「湯殿山」「岩木山」「己侍供養塔」「庚申塔」。
三番目は「巳待」ではなく「己侍」に見える。

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入口に戻る。
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海蔵庵(その1)、午前7時10分

【投稿日2012年1月28日】

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「海蔵庵板碑群」

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海蔵庵は道路一本隔てて長面浦に面している。

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入口の向かって左側にある板碑群。

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入口の向かって右側にある石仏。

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同上。

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「河北町消防団第四分団尾の崎班ポンプ置場」

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「潮生山海蔵庵 潮生観音」
左側の層塔は10層しかなく、向きがバラバラになってしまっているが、元は13層あったものだろうか。

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振り返って長面浦を見る。

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「水子地蔵尊縁起」
この脇を通ってコンクリート壁沿いの坂道に出て、そこを登ると「海蔵庵板碑群」がある。

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「海蔵庵板碑群
 急傾斜地崩壊防止工事に伴う平成十年の発掘調査により、鎌倉時代から室町時代までの板碑が一〇四基発見された。以前に確認されているものと合わせて一五九基になる。
 最も古い板碑は「よりとも様」と呼ばれる弘安十年(一二八七)のもので、主尊の大日如来を梵字「※」で表し、天蓋と連座で装飾された三十五日忌の供養碑である。
 この板碑群の特徴は、主な板碑が板石で囲まれていたことである。天井石と側石で板碑を囲み、両脇にも板碑を配し、それぞれを檀状に配列していた。石囲いは「よりとも様」の板碑をはじめとして南北朝時代までみられる。石材は、鎌倉時代には玄昌石、南北朝時代以降には井内石が主に使用されている。
 この板碑群は、僧侶を含む有力者の一族が主に追善供養を目的に造立したもので、三十五日忌供養を重視した石巻地方の特徴が見られる。板碑の前に火葬骨を埋納したものや古い板碑を整理した痕跡もある。そのような卒塔婆供養が、この板碑群では文安四年(一四四七)までの百六十年間営まれた。
 尾の崎地区は中世、公領の遠島(としま)に属したといわれ、交通・軍事の要衝でもあった。本板碑群は北上川流域における中世の歴史と文化を伝える重要な遺跡である。

 平成十三年十一月三十日  桃生郡河北地区教育委員会」

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「よりとも様」

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posted by 神宮威一郎 at 07:10| Comment(0) | 石巻市河北町

尾ノ崎橋周辺、午前7時

【投稿日2012年1月28日】

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口脇稲荷神社から尾ノ崎橋に引き返し、尾崎地区側から長面地区側を見る。

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口脇稲荷神社方向を振り返る。

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「おのさきばし」

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口脇稲荷神社側に少し戻った地点から尾ノ崎橋を見る。

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橋を渡って、上流方向を見る。
津波前は集落の先に田園が広がり、その後ろに水面が見えたはずの場所。

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瓦礫の分別処理場。

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尾崎地区側に引き返す。
posted by 神宮威一郎 at 07:00| Comment(4) | 石巻市河北町