「雄勝法印神楽」を伝承する大浜の石神社・葉山神社。
前回訪問時の様子はこちら。(↓)
http://chingokokka.sblo.jp/article/51340982.html星亮一氏のサイトによれば、読売新聞2011年6月25日に以下の記事があるとのこと。
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古文書救出に奔走
東日本大震災で被災した古文書の救出活動に、NPO法人「宮城歴史資料保全ネットワーク」(仙台市青葉区)が取り組んでいる。梅雨によるカビ被害も懸念されるだけに、貴重な資料の保護や延命に奔走している。
石巻市雄勝町の石峰山石神社は、社務所とともに先祖伝来の数百点もの古文書が津波で流出した。震災から約1か月後、雄勝湾対岸に打ち上げられた社務所の屋根部分から、宮司の千葉秀司さん(33)が大半の古文書を発見したが、ぬれたり泥をかぶったりしていた。
紹介を受けたネットワークが、カビ発生防止のため、エタノールで消毒したり、真水で洗浄したりなどの処理をした後で返却する。
託された古文書には、国の重要無形民俗文化財「雄勝法印神楽」について、約270年前の舞い方やせりふを記した「御神楽之大事」もあった。ネットワークの事務局長で東北大の佐藤大介助教は「伝統芸能は口伝が多く、文字記録は珍しい。神仏習合の当時は仏教色が濃かったことなど、神楽の変化がわかる貴重な資料だ」と評価する。
同ネットワークは2003年の県北部地震を機に、古文書の被害を防ごうと設立された。震災後の4月4日以降に被災地に入り、会員ら約50人がこれまでに約30か所で古文書の救出作業にあたっている。
被災した旧家のふすまから、偶然古文書が発見された例もある。紙が貴重だった時代に紙を下張りに再利用したもので、ネットワークが預かっただけでも約10軒分に上る。
行政も文化財の救出に取り組んでいるが、指定文化財と異なり、未指定の歴史資料は被害実態の把握が難しい。ネットワークでは、震災前から地域の歴史資料をリスト化しているが、震災で少なくとも十数軒の旧家で古文書が失われた可能性があるという。所有者すら存在や価値に気づいていない例もある。
文化財の防災対策に詳しい神戸大学の奥村弘教授(歴史資料学)によると、阪神・淡路大震災の後、家屋の解体などに伴って古文書など多数の歴史資料が廃棄・売却され、被害の全容はわかっていないという。奥村教授は「文化財指定の有無にかかわらず、地域の記憶を引き継ぐための資料について、その価値を地域で共有し、場所などを確認して災害に備えることが重要だ」と話している。
同ネットワークは、被災した古文書の情報を求めている。問い合わせは同ネットワークへ。
http://www.mh-c.co.jp/cgi-bin/hitokoto.cgi?cd=201106また、「宮城歴史資料保全ネットワーク」のネットニュース第137号(2011年6月25日)に関連する記事がある。
http://www.miyagi-shiryounet.org/03/news/2011/news201107/130kara.htm#137 
「石峰山里宮 薬師 葉山神社」

「車祓い所 前進駐車」

「奉納 平成十九年 葉山神社御開扉大祭記念 株式会社仙台太陽」

「鎮守 葉山神社」

「祖王神社(そおうじんじゃ)
神亀年中に一艘の船が牡鹿郡の出島(いづしま)近海に漂着して来た。牡鹿郡王浦(おうら)浜より漁に出ていた彦右ェ門(ひこうえもん)という者がこれを見つけて漕ぎ寄せて見ると、弱りきった一人の若者が乗っていた。彦右ェ門は、その船を引いて王浦浜の宮郷(みやこ)浜という地に船を着けてその若者を上陸させた。聞いてみると、その若者は朝鮮国の王子で、七歳の時に父親である王の枕を越えた科(とが)によって流された事が分った。王子は村人に胡網(こあみ)という網を作り漁をする方法を教え村人の生活を豊かにして王さま、王さまと敬(うやま)われながら年月を経て晩年になり、旧桃生郡王浜(おおはま)の台に移り住み、網漁の漁法を伝え、祖神(おやがみ)として崇(あが)められた。
現在の大浜の地名は、往古「王の住んだ所の意」が由来であることが、風土記(ふどき)書上により知られているが、王さまを埋葬した時に王の頭が大浜を向き王の足が尾浦を向いており王の字は畏(かしこ)いというので「大浜(おおはま)」と「尾浦(おうら)」に改めたという。葉山神社の境内前方の丘の上に御墓所があり、平成二十年に此の地に御分霊社(ごぶんれいしゃ)が建立され御鎮座された。
平成二十年旧四月八日 葉山神社社務所」

鐘楼の土台。




庚申塔。

鐘楼跡に材木が置かれている。
鐘楼は下の道路脇に流出し、8月の時点では横転していた。


「山神 山祇神社」、「観音 作楽神社」。

「庚申 興玉神社」、「やくじ神 疫王神社」。




「石峰山修験開山五百年記念之碑
石神社歴代社家法印御名碑
石峰山石神社は神亀二年の創祀と伝え延喜式内社に班する古社で
ある中世に至り延徳二年羽黒派修験延命院玉岸秀峰法印開山すとあ
り今上平成二年は五百年の記念すべき節目の年に当り偉大なる功績
を称え歴代社家法印の御名を記し後世に伝える
桓武帝十七代末裔
千葉助太郎平朝臣義清
左衛門太夫
紀伊守
伊勢守
開山権大僧都延命院玉岸秀峰
二世権大僧都十方院智全秀重
三世権大僧都市明院仰天秀實
四世権大僧都市明院蔵常秀叙
五世権大僧都市明院辯英秀應
六世権大僧都弥勒院大珍秀覚
七世権大僧都三明院祈眼秀最
八世権大僧都市明院本求秀光
九世権大僧都三明院珍有秀円
十世権大僧都市明院貫旺秀盛
十一世権大僧都市明院文越秀栄
十二世権大僧都市明院順清秀山
十三世権大僧都市明院千葉秀峰
十四世権大僧都市明院千葉秀栄
明治以前
石峰山石神社 宮司 千葉憲彦 代」

神亀2年は西暦725年。
延徳二年は1490年。

「桓武帝十七代末裔」はどこにかかっているのか。
一代30年として17代だと510年。桓武天皇(737〜806年、70歳)の没年である806年に510を加算すると1316で、鎌倉時代末期。名簿の筆頭「千葉助太郎平朝臣義清」がそのあたりの時代の人とのことか。
ちなみに一代40年として同様に計算すると、806+40×17=1486となり、「延徳二年」(1490)の「羽黒派修験延命院玉岸秀峰法印開山」と一応合ってきそうなので、玉岸秀峰にかかっているとも考えられるが、文言上はやはり初代にかかっていると考えるのが自然なのだろう。

現在の宮司、千葉秀司氏も「秀」の字を用いておられる。
posted by 神宮威一郎 at 14:50|
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石巻市雄勝町