2012年08月16日

分浜・五十鈴神社、午前11時55分

宮城県神社庁の「県内神社の紹介」では、分浜(わけはま)の五十鈴神社は次のように説明されている。

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鎮座地: 宮城県石巻市雄勝町分浜字分浜238
主祭神: 天照皇大神
例祭日: 10月21日
由緒:
室町時代の応永31年(1424)の文書に「わけ之神めいの宮」と記されているが、その創祀のことはわからない。慶長9年及び延宝2年再建された社殿は天保8年山火事によって全焼。嘉永4年に至って建てられ明治に至り、同5年旧社名を改め村社に列せられた。

宮城県神社庁
http://miyagi-jinjacho.or.jp/

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「五十鈴神」。
「社」の字の部分は新しく敷き詰められた白い砕石に埋まっている。

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「 お知らせ
 この地区のガレキを市役所で撤去します。
 時期は、まもなく開始する予定ですが、探し物をする方は、早めに行ってください。
 市役所では、撤去しながら探すことはできませんので、御了解くださるようお願いします。
 なお、市役所の撤去で支障のある方は、個人の負担で撤去していただくことになりますので、御理解と御協力をお願いします。
 また、撤去不要の方は、家屋に「撤去不要」と貼り紙等の表示をお願いします。
  ※連絡先 雄勝総合支所市民生活課」

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家族連れが水遊びをしている。(要拡大)

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雄勝湾を挟んで正面奥は雄勝半島の石尊山。標高352m。

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「龍神」

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手前のゴツゴツした岩は何の神を祀っているのだろうか。

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向かって左側の狛犬。

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右側の狛犬。
夏草に埋もれている。

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石段の途中から海を見る。

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石段を上ったところの平場から上を見る。
おそらくここに拝殿があり、屋根つきの長い木製階段で上の本殿とつながっていたのであろう。

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階段を見あげたところ、暗闇の中にギラッと二つの目が光った。
こんな場所に猫かな、それとも狸かなと思ってカメラを向けるや否や、その動物がドドドッと階段を駆け下りてきて、うわっ、襲われる、と身構えたところ、急に見えなくなり、どうしたのかなと思った次の瞬間、足元を駆け抜けて行った。
何とか後姿を撮ったが、私もかなり動揺していたのでピンボケ。
飼い猫だったのが野生化したらしく、かなり獰猛な雰囲気だった。

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小さいが立派な社殿の形をした祠。(要拡大)

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倒壊した石灯籠の残りの部分は見当たらない。

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雄勝半島のあちこちの浜辺で、ごく少数だが水遊びする家族連れが見られた。
去年の夏はとてもそんな雰囲気ではなかったが、少しずつ日常が戻ってきている。

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錆びた碇が並べられていた。

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2011年12月24日

雄勝町名振浜、午後4時

「宮城歴史資料保全ネットワーク」のネットニュース100号(4月6日号)に紹介されていた雄勝町名振浜の永沼家付近の現状。
http://www.miyagi-shiryounet.org/03/news/2011/2011news_april.html#100

斎藤善之・高橋美貴編『近世南三陸の海村社会と海商』(清文堂出版)に、名振浜・永沼家についての詳しい研究が載っている。以下、宮城学院女子大学教授・菊池勇夫氏の同書への書評を引用。

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南三陸の大規模イエ経営体(海商)の実像を解明

 南三陸の海村には綾里(大船渡市)の千田家、唐桑(気仙沼市)の鈴木家、そして本書が取り上げた名振浜(旧雄勝町、石巻市)の永沼家のような海商=大規模なイエ経営体が存在した。彼等は全国市場と結びつきながら積極的な経済活動を行ない、近世・近代移行期の地域社会を牽引した。
 これらの旧家には近世から近代にかけての厖大な経営に関する文書群が残されている。編者らはその整理と研究を地道に着々と進めてきた。本書はいわばそのような共同作業のなかから生まれた研究成果であり、従来の実証レベルを遙かに凌駕するものとして、大規模イエ経営体や海村社会の実像の解明がめざされている。
 圧巻は、永沼家の資金貸付帳簿を子細に分析し、数千両という資金を地域社会に投下していた資金運用の実態解明によって、漁業・林業・農業・海運業・金融業・商業に及ぶ多角的な経営のすがたを浮かび上がらせたことであろう。このような経営体の存在態様は海村社会を海のみで語ることを許さない。その点で、海と山を一体的な生業世界として捉え、三陸沿岸における御林請負の展開を扱った論考を冒頭に置いているのは肯ける。
 本書の意義はそれにとどまらない。永沼家のもう一つの政治的な顔が具体的に示された。永沼家は肝入(村政)、御判肝入(流通統制)、赤子養育仕法の制道役を務め、献金・役によって士分への身分上昇を果たし、火器使用による捕鯨の献策や大砲献上の出願を行ない、仙台藩の海防の一翼を担おうとさえした。海の「郷士」とはそうした側面を的確に言い当てている。永沼家は士・凡両家を持つに至るが、経済と政治の両面において地域社会に拠って立とうとするイエの戦略が働いていた。その実現のためには領主への役負担を厭わない。藩主出郷のさい、自ら進んでその宿所御用を勤めようとし、領主的権威と直接つながろうとする役の意識があぶりだされている。これは三陸の大規模イエ経営体の共通した志向性でもあるのだろう。
 本書には永沼家に直接関わらない論考もいくつか含まれている。ロシア漂流船若宮丸の船主であった米沢屋平之丞の経済活動や、北上川下流地域の川船のリサイクル、幕府直営方式による城米運送の実態、贈答・饗応などの領主的需要に使う魚・鳥類の調達システム、といったテーマである。それぞれの手堅い考察が、海村社会と海商の実態解明に厚みを加えている。
http://seibundo-pb.co.jp/index/ISBN978-4-7924-0702-5.html

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船越から県道238号線(釜谷大須雄勝線)を名振方向に進み、名振漁港が見下ろせる地点に来る。

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中央、松のある場所が永沼家の建物があったところ。

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永沼家屋敷跡。

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かなり長く、かつ古そうな木材が置かれている。梁に用いられていたものか。

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西方向を見る。木造住宅らしい建造物を建設中の職人さんが数人いる。右端の白い建物は釣客相手の「大丸ホテル」跡。

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中央、奥に見えるのが「大丸ホテル」。

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中央に浮かんでいるのは「貢尻島」。

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東側を見る。水平方向に県道238号線の白いガードレールが伸びている。山の尾根が少しへこんでいるあたりの道路脇から、名振漁港を見下ろす写真を撮影した。

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先程の長い木材を反対側から見る。

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漁港の東の隅に石碑が見えたので、近寄ってみる。

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「 名振の"おめつき"由来
 天明初年頃、集落で大火があり、同三年(一七八三)に火伏せの神である、静岡県の秋葉の神を勧請し、その碑を集落の東西両端に建立し村内安全を祈願した。祭礼はそれに起源する火伏せの祭りであるという。
 祭礼で演じられる芸能の「おめつき」は、思い付きであり「俄狂言」のことで例祭の名称もこれによる。
 祭りは、東・中・西・小浜の四組に別れた契約講が、毎年一月二十四日に輪番で担当する「亭前」により行われる。当日は丁印を先頭に、後に続く山車の「舞台」の笛、太鼓で道中囃子をかなでながら、東の秋葉社の碑に向かう。碑の前で神事を行い「里中安全」の神符が集落の三ケ所の入口に立てられる。丁印と舞台は東端を出発し、獅子舞を従えて集落内を巡行する。巡行に従って、四組の定められた旧家の庭先で「おめつき」が演じられる。それぞれの演技組は仮装をこらし、内容には一応の形式があり、用意された小道具が示され、見物衆との即興的な掛け合いがあり、謎解きがされて「落ち」となる。内容は漁況や政治といった時事問題が主題とされるが、筋立てや狂言回し、それに小道具には男根、女陰があるなど性的に誇張されており、また、それを取り入れていることが定めにされている。
 巡行の途中で舞台は担ぎ手により激しくもまれ、一部は故意に破損されてしまい、翌年の亭前への祭具の引継ぎがされるが、破損個所の吟味で口論におよぶやり取りがあり、総代が仲裁に入り手打ちとなる。本祭礼は年の初めに、集落内の安全を祈願する祭祀に山車として舞台が巡行することと、芸能の即興劇が組み込まれているのが特徴である。おめつきの性的な要素は、正業である漁業の豊漁を祈願する予祝儀礼である。しかも、即興芸能で演じられているのは、全国的に例が少なく、特殊な祭祀として貴重である。

 宮城県指定無形民俗文化財 平成六年十一月二十九日指定
 種別 風俗慣習民俗芸能
 名称 名振のおめつき

 名振秋葉神社氏子会
 平成七年六月吉日建立
 雄勝町教育委員会
 雄勝町文化財保護委員会」

この行事については、「仙台人が仙台観光してるブログ」に詳しい。
http://senndai-tabi.seesaa.net/article/113198567.html
http://senndai-tabi.seesaa.net/article/113247181.html

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左から「秋葉山大権現」、「金毘羅大権現」、「湯殿山」。

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男根の形をした「秋葉神社」。

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石碑のある場所から西方向を見る。

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山沿いに少し北方向に行ってから、岸壁沿いに西方向に進む。

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再び永沼家屋敷跡に戻る。
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2011年12月22日

雄勝町大浜・石神社・葉山神社(その2)、午後3時

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前回訪問時(8月)に較べると、被災建物の解体が若干進んだのみ。
「雄勝法印神楽復興支援金要綱」では「使途内訳」として、
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旧雄勝町(現石巻市)に伝承されている雄勝法印神楽の震災復興
・流失した神楽道具、音響設備、神楽師の衣装の購入
・東日本大震災により損傷した神楽道具の修繕
・津波で流出した神楽舞台の購入、修繕
・雄勝法印神楽復興祈念公演(仮)に係るもの
・その他雄勝法印神楽震災復興に必要と思われるものの購入
・旧雄勝町の災害復興
・余剰金については石巻市社会福祉協議会を通じての日本赤十字社への募金または、石巻市への義援金として取り扱う。
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とあるが、ここで言う「津波で流出した神楽舞台」とは、「購入」との表現から見て移動可能な舞台のことか。
本社殿は念頭に置いていないのだろうか。
http://www.geocities.jp/hoinkagura/sien.html

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「石神々社」

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「交通安全 車祓」

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「石(いその)神社 延喜式内社石神社。石峰山頂にある烏帽子形高さ一丈数尺の大岩石を御神体としている。全山を神領として山麓の諸部落鎮護の神として崇敬された。」

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このコンテナハウスは大崎八幡宮により寄贈されたもの。
以下、大崎八幡宮のブログより引用。

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「石巻市雄勝町大浜鎮座 石神社(いそのじんじゃ)に
  3棟目の『コンテナハウス』を寄贈」(7月12日)
 去る7月12日(火)、石巻市雄勝町大浜に鎮座する石神社(宮司 千葉秀司氏)に3棟目となる『コンテナハウス』を搬入設置してきました。
 宮司の千葉秀司さんは、石神社(いそのじんじゃ)を本務宮司として、雄勝町並びに女川町内に合計18社程の兼務神社の宮司をお勤めになられている若干33歳の若手神職であります。
 それぞれの本務・兼務の神社は、三陸地方の特徴でもあるリアス式海岸の浜ごとに氏子さんの篤い崇敬を集めて鎮座しているお社であり、この度の東日本大震災では御社殿の倒壊・燈籠など境内構築物の倒壊・破損などの被害があり、重ねて地域の氏子総代を始め多くの方々も被災されましたが、文化庁が指定した「重要民俗文化財・雄勝の法印神楽」という貴重な民俗芸能を守り伝えてきた地域でもあります。
 この度、津波被害により流出してしまった「神楽面や装束等」が、神楽保存会の会員でもある氏子の方々の手によって探し、拾い集められてきた為に、急きょ「保管用倉庫」が必要とされたとの事でご寄贈申し上げたものです。
 「国宝・大崎八幡宮(御社殿)」及び「重要文化財・長床(割拝殿)」を所有し、併せて「社務所(2棟1宇)」並びに「神馬舎」を「国指定・登録文化財」の認定申請をしている当宮にとって、「建造物」と「民俗芸能」という有形・無形の違いこそあれ、我が国を代表する貴重な歴史文化の「次代への継承」が義務づけられている私どもにとって、ひとり神社の宮司だけでは守りきれるものではなく、常々「お一人お一人の氏子崇敬者の皆様方のご支援があってこそ」と考え、この度のコンテナハウスをご寄贈することにより大震災の被害を最小限にとどめる事が出来るように願っての事でありました。
 尚、「重要民俗文化財・雄勝の法印神楽」は、鎌倉薪能で有名な神奈川県鎌倉市二階堂に鎮座する「鎌倉宮」の招聘により今秋・10月に、「被災地の伝統文化を守る」ことを願って遠く相模国にて奉奏されることになっているとの事です。
 千葉宮司さま始め、神楽保存会の皆様方のご活躍をお祈り申し上げます。
http://www.okos.co.jp/oosaki/thisweek/index_11_07.html

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鐘は鐘楼と同じく津波により流出したが、8月の時点でもここに置かれていた。

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「神札授与所」。
額装されたご神体の岩石の写真が二つある。

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鎌倉宮での「雄勝法印神楽」奉納の様子はYouTubeで見ることができる。
http://www.youtube.com/watch?v=fjroEFRxUkc&feature=g-upl&context=G209cf8bAUAAAAAAAAAA

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下に小さな狐がいるので、摂社の稲荷社か。

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「はてノ塩竈」というブログに、この倒れた案内板の内容が分かる写真が載っている。
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/29076503.html

「王子御墓所
 神亀年中天竺釈旦国より、千葉大王の皇子といわれる人が、空船に乗って、牡鹿郡の浜に流れ寄り、この地を宮郷(みやこ)と言い王浦と言った。(現尾浦の事である)のちに、王子晩年になり、桃生郡大浜の台に移り住み、網漁の漁法を伝え、祖神として崇められた。
現在の大浜の地名は、往古、「王の住んだ所の意」が地名の由来であることが、風土記書上により、知られている。
奥の石碑が王の墓であり、墓所地上方を台道囲と言う。
また安永九年の一明院書上には、一、古墓所之事、千葉大王之王子御墓所、杉一本、回り弐丈三尺とある。
  昭和六十一年三月二十日建立
       雄勝町教育委員会]

「みちのく遠島物語」というブログにも「千葉大王」伝説への言及がある。
http://tosima.seesaa.net/archives/200810-1.html

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下の道路脇の鐘楼。
8月の時点では横転していた。

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大浜漁港を見下ろす。

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posted by 神宮威一郎 at 15:00| Comment(3) | 石巻市雄勝町

雄勝町大浜・石神社・葉山神社(その1)、午後2時50分

「雄勝法印神楽」を伝承する大浜の石神社・葉山神社。
前回訪問時の様子はこちら。(↓)
http://chingokokka.sblo.jp/article/51340982.html

星亮一氏のサイトによれば、読売新聞2011年6月25日に以下の記事があるとのこと。

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古文書救出に奔走
 東日本大震災で被災した古文書の救出活動に、NPO法人「宮城歴史資料保全ネットワーク」(仙台市青葉区)が取り組んでいる。梅雨によるカビ被害も懸念されるだけに、貴重な資料の保護や延命に奔走している。
 石巻市雄勝町の石峰山石神社は、社務所とともに先祖伝来の数百点もの古文書が津波で流出した。震災から約1か月後、雄勝湾対岸に打ち上げられた社務所の屋根部分から、宮司の千葉秀司さん(33)が大半の古文書を発見したが、ぬれたり泥をかぶったりしていた。
 紹介を受けたネットワークが、カビ発生防止のため、エタノールで消毒したり、真水で洗浄したりなどの処理をした後で返却する。
 託された古文書には、国の重要無形民俗文化財「雄勝法印神楽」について、約270年前の舞い方やせりふを記した「御神楽之大事」もあった。ネットワークの事務局長で東北大の佐藤大介助教は「伝統芸能は口伝が多く、文字記録は珍しい。神仏習合の当時は仏教色が濃かったことなど、神楽の変化がわかる貴重な資料だ」と評価する。
 同ネットワークは2003年の県北部地震を機に、古文書の被害を防ごうと設立された。震災後の4月4日以降に被災地に入り、会員ら約50人がこれまでに約30か所で古文書の救出作業にあたっている。
 被災した旧家のふすまから、偶然古文書が発見された例もある。紙が貴重だった時代に紙を下張りに再利用したもので、ネットワークが預かっただけでも約10軒分に上る。
 行政も文化財の救出に取り組んでいるが、指定文化財と異なり、未指定の歴史資料は被害実態の把握が難しい。ネットワークでは、震災前から地域の歴史資料をリスト化しているが、震災で少なくとも十数軒の旧家で古文書が失われた可能性があるという。所有者すら存在や価値に気づいていない例もある。
 文化財の防災対策に詳しい神戸大学の奥村弘教授(歴史資料学)によると、阪神・淡路大震災の後、家屋の解体などに伴って古文書など多数の歴史資料が廃棄・売却され、被害の全容はわかっていないという。奥村教授は「文化財指定の有無にかかわらず、地域の記憶を引き継ぐための資料について、その価値を地域で共有し、場所などを確認して災害に備えることが重要だ」と話している。
 同ネットワークは、被災した古文書の情報を求めている。問い合わせは同ネットワークへ。
http://www.mh-c.co.jp/cgi-bin/hitokoto.cgi?cd=201106

また、「宮城歴史資料保全ネットワーク」のネットニュース第137号(2011年6月25日)に関連する記事がある。
http://www.miyagi-shiryounet.org/03/news/2011/news201107/130kara.htm#137  

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「石峰山里宮 薬師 葉山神社」

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「車祓い所 前進駐車」

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「奉納 平成十九年 葉山神社御開扉大祭記念 株式会社仙台太陽」

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「鎮守 葉山神社」

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「祖王神社(そおうじんじゃ)
 神亀年中に一艘の船が牡鹿郡の出島(いづしま)近海に漂着して来た。牡鹿郡王浦(おうら)浜より漁に出ていた彦右ェ門(ひこうえもん)という者がこれを見つけて漕ぎ寄せて見ると、弱りきった一人の若者が乗っていた。彦右ェ門は、その船を引いて王浦浜の宮郷(みやこ)浜という地に船を着けてその若者を上陸させた。聞いてみると、その若者は朝鮮国の王子で、七歳の時に父親である王の枕を越えた科(とが)によって流された事が分った。王子は村人に胡網(こあみ)という網を作り漁をする方法を教え村人の生活を豊かにして王さま、王さまと敬(うやま)われながら年月を経て晩年になり、旧桃生郡王浜(おおはま)の台に移り住み、網漁の漁法を伝え、祖神(おやがみ)として崇(あが)められた。
 現在の大浜の地名は、往古「王の住んだ所の意」が由来であることが、風土記(ふどき)書上により知られているが、王さまを埋葬した時に王の頭が大浜を向き王の足が尾浦を向いており王の字は畏(かしこ)いというので「大浜(おおはま)」と「尾浦(おうら)」に改めたという。葉山神社の境内前方の丘の上に御墓所があり、平成二十年に此の地に御分霊社(ごぶんれいしゃ)が建立され御鎮座された。
 平成二十年旧四月八日 葉山神社社務所」

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鐘楼の土台。

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庚申塔。

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鐘楼跡に材木が置かれている。
鐘楼は下の道路脇に流出し、8月の時点では横転していた。

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「山神 山祇神社」、「観音 作楽神社」。

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「庚申 興玉神社」、「やくじ神 疫王神社」。
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「石峰山修験開山五百年記念之碑

  石神社歴代社家法印御名碑
 石峰山石神社は神亀二年の創祀と伝え延喜式内社に班する古社で
ある中世に至り延徳二年羽黒派修験延命院玉岸秀峰法印開山すとあ
り今上平成二年は五百年の記念すべき節目の年に当り偉大なる功績
を称え歴代社家法印の御名を記し後世に伝える
   桓武帝十七代末裔

千葉助太郎平朝臣義清
左衛門太夫
紀伊守
伊勢守
開山権大僧都延命院玉岸秀峰
二世権大僧都十方院智全秀重
三世権大僧都市明院仰天秀實
四世権大僧都市明院蔵常秀叙
五世権大僧都市明院辯英秀應

六世権大僧都弥勒院大珍秀覚
七世権大僧都三明院祈眼秀最
八世権大僧都市明院本求秀光
九世権大僧都三明院珍有秀円
十世権大僧都市明院貫旺秀盛
十一世権大僧都市明院文越秀栄
十二世権大僧都市明院順清秀山
十三世権大僧都市明院千葉秀峰
十四世権大僧都市明院千葉秀栄
            明治以前

  石峰山石神社 宮司 千葉憲彦 代」

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神亀2年は西暦725年。
延徳二年は1490年。

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「桓武帝十七代末裔」はどこにかかっているのか。
一代30年として17代だと510年。桓武天皇(737〜806年、70歳)の没年である806年に510を加算すると1316で、鎌倉時代末期。名簿の筆頭「千葉助太郎平朝臣義清」がそのあたりの時代の人とのことか。
ちなみに一代40年として同様に計算すると、806+40×17=1486となり、「延徳二年」(1490)の「羽黒派修験延命院玉岸秀峰法印開山」と一応合ってきそうなので、玉岸秀峰にかかっているとも考えられるが、文言上はやはり初代にかかっていると考えるのが自然なのだろう。

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現在の宮司、千葉秀司氏も「秀」の字を用いておられる。
posted by 神宮威一郎 at 14:50| Comment(0) | 石巻市雄勝町

雄勝町明神・塩釜神社、午後2時30分

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例年4月25日に「雄勝法印神楽」が奉納される明神地区の塩釜神社。
神社の建物は高台にあるため無事だったが、明神地区は津波のため大半の家屋が全壊。

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「湯殿山」
「山神」

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石段の傾斜はかなり急。

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立派な社殿。

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「山神」

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子供を抱く女性的な石仏。
帽子もなかなかお洒落。

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「西方無量寿仏」

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8月の訪問時には崩壊しており危険だったが、応急修理済。

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防波堤から振り返る。
周辺の瓦礫は大半が撤去されている。
posted by 神宮威一郎 at 14:30| Comment(0) | 石巻市雄勝町