以下、2011年4月15日付の毎日新聞より。
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子どもの笑顔守りたい 教諭ら中学再開に奔走−−宮城・南三陸
東日本大震災の大津波で校舎が損壊した宮城県南三陸町立戸倉中の教諭らは、町外の校舎で迎える新学期の準備に追われている。技術科の菊田浩文教諭(49)は津波にのみ込まれた老夫婦を助けようとして一緒に救助に当たった同僚教諭を亡くし、両親も自宅も奪われた。それでも「子供たちには夢を持たせてやりたい」という気持ちから、笑顔を絶やさない。【垂水友里香】
戸倉中の教諭や生徒約70人は3月11日午後、翌日の卒業式の準備をしていた。巨大地震の発生後、菊田教諭らは指定避難所の同校に逃げてきた住民の誘導に当たった。海を見た瞬間、大津波が堤防を越えるのが見えた。「来るぞ! 逃げろー」。思わず叫んだ。
その時、校庭を横切る高齢の男女が目に入った。夫婦のようで、男性は足の不自由な女性の手を引いていた。同僚の猪又聡教諭(43)が男性、菊田教諭が女性を抱えて逃げようとした時、「高い水の壁が平行移動するようにやって来た」。水没し息が続かない。「こんなに簡単に人間って死ぬんだ」。冷静に思った。目に入った木の枝に必死にしがみ付き、一命は取り留めた。
搬送された石巻赤十字病院(石巻市)で、肋骨(ろっこつ)2本が折れているのが分かった。助かった安堵(あんど)よりも喪失感に襲われた。猪又教諭は遺体で見つかった。気仙沼市・大島で暮らす両親も帰らぬ人となった。「自分だけ助かってしまった」。そんな気持ちに押しつぶされそうになり「夢というものを失った」。
菊田教諭を救ったのは、震災後も変わらない子供の笑顔だった。「守りたいもの」に改めて気が付いた。少しずつ前を向けるようになった。
戸倉中は、隣接する登米市の廃校になった旧善王寺小に移転し、5月初旬に新学期を迎える。菊田教諭は今、事務作業や荷物の運び出しに汗を流す。「制約は当然あるけど、子供のやりたいことができる環境を整えてやりたい」という気持ちが体を突き動かす。
何もかも失ったあの日。避難生活を送る子供にようやく冗談を言えるようになった。「自分のことだけ考えていたら確実に生きていられなかった」。でも今は違う。「子供が笑顔になるように、やらなければならないことは山ほどある」
http://mainichi.jp/life/edu/juniorhighschool/archive/news/2011/04/20110415dde041040008000c.html
"TOKURA"ではなく、"TOGURA"。
「南三陸町立戸倉中学校」。
玄関はべニア板で覆われていた。
1階の窓ガラスには破損が目立つが、全部壊れている訳でもない。
浸水した校庭には仮設住宅が設置されている。
原口・岩松『東日本大震災津波詳細地図上巻』によれば戸倉中学校の津波浸水高は20.22メートルで、浸水域外に仮設住宅を設けようとしても、実際上適当な場所がない。
体育館。
体育館の直下まで津波で大きく抉られている。
黒い固まりは漁網。
正面、戸倉小学校。
その奥に戸倉小学校の児童と戸倉保育所の園児が避難した五十鈴神社の鳥居が小さく見える。(要拡大)
折立漁港。
国道398号線。
撮影は遠慮したが、校舎の裏玄関付近で網の手入れをしている漁師さんがいた。
その人と世間話をしていたおばさんが仮設住宅の方へ歩いて行った。
校舎裏側。
左奥、樹木に覆われた小さな山のように見えるのが荒島。(要拡大)
根本から折れた照明灯。
正面は松崎。その奥が椿島。(要拡大)
校舎を一周して校庭に戻る。
教育ボランティアらしい女性と追い駆けっこをする子供。
子の夏休みの自由研究に南三陸町戸倉地区のことを調べており、
戸倉中学校の震災後の写真をさがしていましたら、こちらにたどり着きました。
今年撮った写真と、アングルが重なる写真をこちらで拝見しました。
震災前〜震災後〜現在、の状況を伝えたいと考えているのですが、
使用許諾のご相談をさせていただきたく、コメント欄より失礼いたします。
宜しくご検討いただけますよう、お願いいたします。
本名記載は控えさせていただきました。
大変お手数をおかけしますが、記載したメールアドレスより、
使用者名、使わせていただきたい写真、使用範囲についての詳細を
ご連絡させていただければと思うのですが。。。
どうぞ宜しくお願いいたします。
こんにちは。
どうぞご自由にお使いください。
一応、出典としてブログ名だけ記載していただければありがたいです。
出典と承諾を頂いている事を明記し、使わせていただきます。
どうもありがとうございます。