「海蔵庵板碑群」
海蔵庵は道路一本隔てて長面浦に面している。
入口の向かって左側にある板碑群。
入口の向かって右側にある石仏。
同上。
「河北町消防団第四分団尾の崎班ポンプ置場」
「潮生山海蔵庵 潮生観音」
左側の層塔は10層しかなく、向きがバラバラになってしまっているが、元は13層あったものだろうか。
振り返って長面浦を見る。
「水子地蔵尊縁起」
この脇を通ってコンクリート壁沿いの坂道に出て、そこを登ると「海蔵庵板碑群」がある。
「海蔵庵板碑群
急傾斜地崩壊防止工事に伴う平成十年の発掘調査により、鎌倉時代から室町時代までの板碑が一〇四基発見された。以前に確認されているものと合わせて一五九基になる。
最も古い板碑は「よりとも様」と呼ばれる弘安十年(一二八七)のもので、主尊の大日如来を梵字「※」で表し、天蓋と連座で装飾された三十五日忌の供養碑である。
この板碑群の特徴は、主な板碑が板石で囲まれていたことである。天井石と側石で板碑を囲み、両脇にも板碑を配し、それぞれを檀状に配列していた。石囲いは「よりとも様」の板碑をはじめとして南北朝時代までみられる。石材は、鎌倉時代には玄昌石、南北朝時代以降には井内石が主に使用されている。
この板碑群は、僧侶を含む有力者の一族が主に追善供養を目的に造立したもので、三十五日忌供養を重視した石巻地方の特徴が見られる。板碑の前に火葬骨を埋納したものや古い板碑を整理した痕跡もある。そのような卒塔婆供養が、この板碑群では文安四年(一四四七)までの百六十年間営まれた。
尾の崎地区は中世、公領の遠島(としま)に属したといわれ、交通・軍事の要衝でもあった。本板碑群は北上川流域における中世の歴史と文化を伝える重要な遺跡である。
平成十三年十一月三十日 桃生郡河北地区教育委員会」
「よりとも様」